國體護持總論
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本能と理性

この本能に關して、これと對比される理性との關係については第一章で述べたが、その重要な部分について、ここで再述してみたい。

ルドルフ・シェーンハイマー(Rudolf Schoenheimer)は、昭和十二年(1937+660)に、ネズミを使つた實驗によつて、生命の個體を構成する腦その他一切の細胞とそのDNAから、これらをさらに構成する分子に至るまで、全て間斷なく連續して物質代謝がなされてゐることを發見した。生命は、「身體構成成分の動的な状態」にあるとし、それでも平衡を保つてゐる。まさに「動的平衡(dynamic equilibrium)」(文獻329)である。唯物論からすれば、人の身體が短期間のうちに食物攝取と呼吸などにより全身の物質代謝が完了して全身の細胞を構成する分子が全て入れ替はれば、物質的には前の個體とは全く別の個體となり、もはや別人格となるはずである。しかし、それでも「人格の同一性」が保たれてゐる。このことを唯物論では説明不可能である。人體細胞も一年半程度で全て新しい細胞に再生し、しかも、その細胞の成分も新しい成分で構成されるといふことになると、このシェーンハイマーの發見は、唯物論では生命科學を到底解明できないことが決定した瞬間でもあつた。

そして、この發見によつて、理性を善とし本能を惡とする單純な二元論である合理主義(理性論、理性主義 rationalism)をも崩壞させた。合理主義を貫くと、人は時間的經過によつて個體を構成する物質が完全に入れ替はるので、人格の連續性があるとすることは錯覺といふことになる。同じ個體であつても別の物質なのに、ましてや親、兄弟、親族などは、自己からはさらに遠い別の物質である。そのため、身分關係を契機とした相續などの世襲制度や扶養などの家族制度は、理性的には否定される。これを否定したのが共産主義であり、これは合理主義を突き詰めた結果である。合理性があつて獲得したものではない「婚姻關係」や「血縁關係」に拘束されることは、「非合理」なものとして完全に否定されなければならなくなる。親から受け繼いだものは、個體の誕生初期の生體構成物質だけで、それ以後に獲得した物質は自己が親とは別個の生命活動によつて獲得したものであり、「親」と「非親」との區別はない。親族も非親族も「他人性」の程度は同一である。それゆゑ、婚姻や血縁による親族關係を「特殊な關係」として認識することは、合理主義からすれば「非合理」であり完全否定されなければならなくなる。しかし、それでも人々は婚姻と血縁を基礎として生活を繼續する。これによつて、人間は、理性的動物ではなく、本能的存在であることが歸納的に證明されたことになり、合理主義は生命科學ではなく、科學的證明が不可能な單なる假説であり、これに固執することは「理性」を神とする新興宗教であることが明確になつたのである。

つまり、プラトン哲學からの歴史を刻んできたこの合理主義といふ假説は、そもそも實驗事實そのものが存在せず、しかも、この假説に矛盾を含むか否かの檢證が一度もなされたことがない。現代の動物行動學(エソロジー、ethology)、心理學、腦科學などからすると、本能を惡、理性を善とした合理主義の假説が破綻してゐることが解る。理性とは、人以外の動物にはなく、人のみに備はつた觀念的思考である。これを絶對視して、これに「適合」することが眞理であり、「本能」とか「傳統」といふものを猜疑的に捉へて、これらには價値を見出さないのが合理主義である。しかし、「本能」が惡であり、それが生存にとつて妨げとなる缺陷機能であれば、人類のみならず生物の全ては早々と自滅的に滅亡してゐたはずである。本能とその作用による學習によつて生命が維持されてゐる。理性によつて生命が維持されてゐるのではない。我々は、理性を失つた者も生き続けてゐる事實を知つてゐる。また、理性的に人格を完成させた聖人であつても、本能機能を失へば身罷ることも知つてゐる。

このやうな本能と學習の研究は動物行動學(エソロジー、ethology)と云ひ、ノーベル賞受賞學者のコンラート・ローレンツが比較行動學の立場から、それを科學的理論として確立させた。つまり、「種の内部のものどうしの攻撃」は、理性論からすれば絶對的「惡」であるが、比較行動學からすると「種内攻撃は惡ではなく善である。」ことを科學的に證明した。つまり、「種の内部のものどうしの攻撃は、・・・明らかに、あらゆる生物の体系と生命を保つ営みの一部」(文獻104)であり、「本能は善」であつて、これを惡とする理性論は誤りであることを科學的に證明したのである。

また、合理主義の崩壊は、クルト・ゲーデルの「不完全性定理」からも證明された(文獻250、327、328)。「自然數論を含む歸納的に記述できる公理系が、無矛盾であれば、自身の無矛盾性を證明できない。」ことを數學基礎論から證明したものであるが、形式論理學でいふ排中律(Aか非Aかのいづれかである。)及び矛盾律(Aは非Aでない。Aであり非Aであることはない。)などが適用される無矛盾の領域は、全事象を網羅することにおいて完全ではない(不完全である)ことを證明したことになる。

マーシャル・マクルーハンが好きな言葉に、「誰が水を發見したのかは分からないが、それは魚ではないだらう。」といふのがあるが、人の本能や理性の實相(水)は、その水が出來てから生まれた合理主義(魚)では解明しえないことの喩へである。また、産業革命からアメリカの獨立、そしてフランス革命へ導いた合理主義こそが「理性的欲望主義」であり、その象徴として描かれたのがシェリー作の「フランケンシュタイン」の物語なのである。この物語は、完璧な「理想の人間」(理性的人間)には、醜さといふ最大の缺陷があり、爭ひを繰り返して人類を幸福にせず、その究極には破綻と滅亡が待つてゐることを寓意するものであつた。

本能を司る中樞は、腦幹と脊髄、小腦などの部分である。本能の基礎となる自律神經は生來的に備はつてゐるが、五感の作用に基づいてなされる行動の樣式と能力である本能は、成長に伴ひ、學習と經驗を積み重ねることによつて強化されて「修理固成」に至るのである。群れをなし社會を形成して生きる人類には、自己保存本能、種族保存本能、集團秩序維持本能などがあり、それは、個體と種族集團を守るためのプログラムとして組み込まれてゐる。たとへば、身の危險を避けようとするのは自己保存本能であり、子孫を殘し、身を捨てでも家族や社會、國家を守らうとするのは種族保存本能によるものである。

草食動物の親子が肉食猛獣に襲はれたとき、親が子を守らうとして、自らが猛獣の囮となる行動は、理性論では到底説明がつかない。人の親子についても、同じやうな危機的状況に置かれた場合、これと同樣の行動をとる。このことは、合理主義(理性論)から生まれる個人主義と人權論からすると、「命の大切さ」を教へ、自己の命は何にも代へ難いから、親が子のために自己の生命と身體を犧牲にすることなどは絶對にあり得ないことになる。しかし、この行動は、種族保存本能に根ざしたものであり、理性によるものではない。これは、種族保存本能(種族防衞本能)が自己保存本能(自己防衞本能)を凌駕する指令體系であることを意味する。

自己の利益を追求する活動よりも、世のため人のために見返りを求めずに奉仕する活動をするときに、人は精神の高揚を感じる。自利よりも利他に快感を得ることは理性では説明がつかない。これも本能のなせる業である。

もとより、群れを爲して家族を形成し共同生活によつて生存しうる人類は、個人だけでは生存できない。それゆゑ、個人の意義と價値を重視してその權利と自由に至上價値を見いだす個人主義は、理性論の産物である。個體(人體)と家族、部族、種族、民族、國家へと段階的に連なる雛形構造が動的平衡を保つために「本能」といふ指令が存在するのであるから、その指令に適合する方向こそが、あたかも胎兒が母の胎盤の中の羊水に浮かぶが如く、安全、安定、安心を與へる。それゆゑ、秩序を維持し、集團を防衞するなどの本能に適合すること(本能適合性)を滿たさなければ、國家、社會、家族など全ての領域において規範とはなりえない。

從つて、個人主義は、個人を優先させ集團を劣後させる點において、この「本能適合性」を缺く。人は個人として自立しうる時期は極めて短い。幼いときは家族に養育され、老いても家族に扶養される。成人に達しても、疾病と障害があれば、やはり家族の保護と介護を受ける。これほどまでに個人の自立可能な時期が短いのに、この短期の状態を永遠であるかの如く普遍化して個人主義を打ち立てることに本質的な無理がある。本能適合性があるのは、刹那的な個人を重視した「個人主義」ではなく、連綿と繼続する家族を重視した「家族主義」であり、ここに普遍性が見いだされる。

ところで、本能と理性との相關關係において、この本能の部品の一つである「欲望」の中の「性欲」の本質に關連して試金石として擧げられるものは、人間社會において、近親相姦や近親婚を禁忌してきたのは何故なのかといふことがある。剥き出しの「性欲」が「本能」そのものであるといふのであれば、最も身近に居る親子と兄弟姉妹に向けて「性欲」を追求することが自然なはずであるが、現實はさうでない。そのことについて、これまで樣々な理由と根據が考へられてきた。

古代エジプトでは、王家や上流階級では近親婚が一般であつたとされるが、これは特權維持のため他家の干渉を防ぐ自衞手段としてのものであり、一般化されたものではなく、現在では、これを認めてゐる民族は極めて少ない。尤も、「近親」の範圍が「リニージ」や「氏族」にまで及ぼすものもあるが、すべてに共通するのは、「親族相姦」と「親族間の婚姻」を禁止する點である。

初期においては、近親婚では劣惡な遺傳子が結びつゐた個體が出てくることを經驗的に知つたことから禁止されたとする生物學的見解があつた。しかし、劣惡な遺傳子とは、必ずしも遺傳學的にいふ劣性遺傳子、すなはち、遺傳子が二個結合しなければ出現しない性質のものではない。むしろ、能力的又は形質的に優れた遺傳子が、劣性遺傳子であることが多いことが知られるやうななつたことから、この見解は科學的に否定された。

次に登場したのが、人類學に構造主義を取り入れたフランスの人類學者C・レヴィ・ストロースの見解である。人間の心や行動は、意識だけでは捉へきれない社會構造があるとし、近親相姦や近親婚の禁忌(インセストタブー)は、家族の中の女性を家族内だけで獨占すればその家族が他の家族との關係で孤立し、社會のつながりを形成できなくなるので、「女性の交換」をする社會規範を作つたといふのである。しかし、規範は、本能に基づいて、その規範内容を周知させることに實效性の基礎を置くものであるから、本能とは無縁に、人間の意識外で形成される規範といふものはあり得ない。社會契約説の陷つた矛盾のやうに、「女性の交換」規則を誰も意識せずに全員がそのことを相互に合意してきたといふのであらうか。

さうなると、やはり、ここは本能の出番である。

人間は社會的動物と云はれる。どうして社會的動物であるのかと云へば、人間には對人關係に強く反應する本能があることに由來してゐる。とりわけ、對人關係を築く出發點は、人との出會ひである。そのときにはお互ひに顏を見る。そして、お互ひに顏を認識してその表情を讀み取り、その表情から好意と敵意などを識別するのである。つまり、人間の腦は「顏」の形に強く反應する本能を備へてゐるのである。それがシミュラクラ(simulacra)現象(類像現象)である。目と鼻と口などの人の顏の部分と全體の特徴と表情が詳細に識別できる極度の敏感さがあるために、人の顏に類似したあらゆる形像に對しても、それを人の顏であると錯覺する。壁の染みや岩肌などの自然物の造形が目鼻のある人の顏の形に見えてきたり、人面魚とか人面犬などと騒ぎ出したりする、あの現象のことである。これは幻影の一種であるが、このやうなものまで人の顏と錯覺しうるほど人の顏に對しては敏感なのである。人には、他人の顏の特徴と微妙な顏の表情を讀み取つて對人關係を構築して行く能力が備はつてゐることの證でもある。

この本能によつて、家族と他人とを識別して精緻な人間關係を築いてゐるのであつて、ひとたび家族として識別したときは、さらに次の段階の本能として、家族であることの認識に基づき、他人に對するものとは異なつた行動が規律されて行くことになる。

つまり、このことからして、家族内の女性に對する性的衝動を抑制し近親相姦と近親結婚を避けるのは、自己の家族集團以外の他の家族集團との紐帶を築いて、さらに大きな種族の群れを形成し、それによつて種族全體の維持を實現しようとする種族維持本能によることになる。そのためには、家族内の秩序を維持してストロースの云ふ「女性の交換」が行へるやうにしなければならないので、家族内の女性に對する性的衝動を抑制する秩序維持本能が働く。本能中樞神經として意志とは無關係に機能する自律神經にも、交感神經系と副交感神經系があつて、相互が拮抗的に作用するのと同樣に、この場合には、集團秩序維持本能が性的衝動を司る種族保存本能を抑制する。欲望があるのは、自己と種族を保存するために必要な本能であるが、その逆に、その欲望を秩序維持のために鎭めるのも、やはり本能の働きである。このやうなことは誰に教はることなく、理性的に學習することもなく、そもそも種族内の秩序を維持し發展させるために人類全般に備はつた本能なのである。

この禁忌(タブー)を犯すのは、その者の本能が未完成であるか劣化してゐるためであり、その結果、理性に缺陷を生じたためである。

つまり、禁忌(タブー)とは、人類の本能に組み込まれた生物學上の基本的な道德規範であつて、これは、個體と集團を守るために組み込まれた本能に由來する。これは、本能に基づいて個體内部に形成された自律規範である。これが「禮」の根源である。そして、これが累積されて個體の外部(社會)に他律規範も生まれる。それがさらに民族的特性も加味されて、道德などの、より高度で複雜な社會規範へと形成發展してきた。それゆゑ、個體から家族や社會へ、そして國家といふ集團を防衞するための規範が生まれ、これに違反した者に對して應報的處罰を課すことを當然と認識し、それを實行するのも、階層構造の社會秩序を維持するための本能に由來するのである。國家の形成も、この集團の確定のために必要な本能の發現である。

このやうに、個體、家族、社會、國家、世界の構造は、合理主義に基づく設計主義では構築できない。政治學はもとより、經濟學は、個人主義などの合理主義で組み立て、それを實踐すれば社會や国家、世界が混亂し、終には崩壞する。個體、家族、部族、民族、國家へと連なる雛形構造(フラクタル構造)が本能構造であることを見据へて、これに基づいて再構築されなければならないのである。個體、家族、社會、國家、そして世界は、雛形構造の本能プログラムによつて統一されてゐるのであつて、その一部の歪みが全體の歪みとなる。特に、人の生命維持生活のための經濟の構造は、演繹的な合理主義に基づく數學的、統計學的手法を驅使してシステムを構築してはならず、これまでの人類の歩みから歸納的に紡ぎ出される本能プログラムに基づくシステムを發見することであり、その構造を發見する學問が眞の經濟學でなければならないのである。

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