國體護持總論
トップページ > 著書紹介 > 國體護持總論 目次 > 【第六巻】第六章 萬葉一統 > 第一節:世界的危機の諸相

著書紹介

前頁へ

現代産業社會の限界

現代社會は、工業生産中心の産業經濟社會である。これは、全産業に技術革新をもたらした産業革命から今日に至るまで全世界を支配してゐる「生産至上主義」で統制されてゐる。この生産至上主義とは、産業生産が大きくなればなるほど人類は、生産によつて得られた豐富な財貨を所有し、使用し、消費することによつて福利も大きくなるとしたうへで、産業革命による技術革新の恩惠は、全産業部門に飛躍的發展をもたらすことにより、限りなく歴史は進歩發展するとの單線的な進歩發展史觀のことである。

一般に、全産業構造を理解する説明として、全産業部門を第一次産業(農業、畜産業、酪農業、林業、漁業など)、第二次産業(鑛業、加工業、製造業、建設業、電氣・ガス事業など)及び第三次産業(商業、運輸業、通信業、金融・保險業、サービス業など)に分類し、第一次産業と第二次産業による「生産」部門は、第三次産業の「流通」部門を經て「消費」部門へと向ふとの基本認識である。しかし、ここには、「消費」によつて發生する廢棄物の無害處理及び資源再生利用處理などの「再生」の觀點が完全に缺落してゐた。といふよりも、再生過程は、當初は原則的に産業ではなく、從つて、資本が投下される對象とはならなかつたのである。生産過程で重視されるのは、資本と勞働の「生産性」や「利益性」などの經濟效率の向上であり、再生を踏まへた生産は、これらを低下させることになるから埒外の事柄であるとされた。その觀點の缺落が「公害問題」や「産業廢棄物處理問題」などを發生させ、その處理需要が社會的に認識されることにより、再生過程は新たに産業として新規參入してきたのである。しかし、處理需要が存在しないものは産業化されずに全く放置される。今、地球で起きてゐる諸問題の多くは、再生過程に關する問題であり、處理需要がなくて産業化されてゐない部門や、技術的に産業化が立ち遲れてゐる部門などに問題が集中してゐる。

從つて、この生産至上主義は、「生産」部門の觀點からみれば「生産の擴大」であるが、「再生」部門の觀點からは「廢棄物の增大」であつたのである。

ところで、この生産至上主義を「資本」原理から全面的に肯定した資本主義は勿論のこと、資本主義を「勞働」原理から修正したマルクス主義もまた、生産至上主義の本流である。マルクスにも、「再生」の觀點がなく、「公害問題」の認識はなかつた。本來、公害問題の個別事例や派生形態として認識すべき職業病などについても、專ら勞働原理からの觀點により、これを勞働力の再生産段階の「賃金問題」のみに置き換へたのである。

このやうな生産至上主義によれば、生産に必要かつ經濟效率の高い資源を用ゐることになる。それは、調達コストで決するのであり、生産に不可缺な大量消費物資である動力源(エネルギー)を埋蔵燃料(石炭、石油、天然ガス等)とすることは必然的であつた。石炭から石油などへの轉換は、この調達コストと産業的汎用性の問題に盡きるのである。しかし、石油等の埋蔵燃料の産出といふのは、鑛業の一種で第二次産業に屬するものであつて、その埋蔵燃料は地球の構成物であり埋蔵量が有限であるとともに、その大量消費は、産業革命の發祥地であるイギリスのロンドンで發生したスモッグなどの公害を引き起こし、地球の大氣構成に影響を及ぼすことは當初から豫測しえたのであつて、その利用によつて地球生態系の破壞と資源の枯渇が起こり、産業自體が限界に到達することは容易に推測できた。

また、自動車や家電製品の生産のやうに、性能には殆ど差異はないのに年々デザインを刷新した耐久消費財を過剰生産し、消費者の過剰消費と購入を促進させるための宣傳廣告などの販賣促進を行つて消費者を洗腦し、新製品を買ひ替へて舊製品を廢棄する奢侈こそが「豐かさ」であるとの歪んだ社會風潮を生み出した。耐久消費財の概念は既に過去のものとなり、舊型製品には見向きもしない有樣であつて、今や、自動車や家電製品などは「生鮮食料品」にも等しい扱ひである。自動車の大衆化(モータリゼーション)は、過剰消費を世界的に蔓延させてゐる。質素儉約の精神は美德として評價されなくなつたのである。

生産至上主義を支へるのは、徹底した分業體制であり、それは國際分業體制に通ずるのである。分業といふのは、會計學と經濟學の見地からすると、これまでは一つの企業内で内部取引として處理され、獨自にはGDPの對象と認識されなかつたものが、分業をすることにより社外調達(アウト・ソーシング)することによつて、対外的な取引へと轉換して需要と供給とに分離し、それぞれGDPの認識の對象となる現象のことである。つまり、分業が細分化すればするほど、效率は高まつても仕事の總量に變化はないのに、經濟規模だけは擴大するといふカラクリになつてゐるのである。

マルクスも、生産至上主義の立場を堅持して、世界市場の建設は、資本主義體制の國際的性格を發展させるものであり、これは、機械制大工業による大量生産の社會的性格の發展と竝んで「歴史の進歩」を意味するものであるとして、共産主義社會の前提として自由貿易主義を主張してゐた。自由貿易主義は生産至上主義の必然的な歸結なのである。しかし、その結果は、「南北問題」が一段と深刻化し、國家間の貧富の差(南北格差)は更に擴大するのみならず、窮乏化する國家の内政を不安定にし、支配者及び富裕層と被支配者及び貧困層との乖離は絶望的な對立状況を生むに至つてゐる。

しかも、資本主義世界において、共産主義が脅威であつたころは、貧富の差が擴大することに懸念を抱いたが、共産主義が壞死状態となつた今日では、貧富の差が擴大することを「進歩」のあかしとして歡迎する傾向にある。

このやうな貧富の差や南北格差が發生する根本矛盾を隱蔽し、生産至上主義を維持するための免罪符として、政府開發援助(ODA)などの經濟援助を行ふが、その實態には、自國の企業に對する援助や窮乏國家の支配者に對する援助の側面と、その國民に生活物資を供給するための援助の側面がある。前者の欺瞞は言ふに及ばないが、後者もまた結果的には國民の自立再生を阻み、窮乏國家を「人間保護區」とするに等しく、「人間サファリパーク化」であり、「奴隷牧場化」させることになる。物を與へるだけで、仕事を與へない。産業や技術を誘致して地元に根を下ろす雇用創出産業を育成させないのである。これらの施策が原因となつて、世界各地では、人口爆發が起こり、生活水準は向上しない。そのため、これらの不滿が、宗教紛爭、民族紛爭などを引き起こし、國内紛爭や國家間紛爭が激化して、難民や移住者などの大量發生や大量の人口移動が慢性的に繰り返され、今や一國では對應しきれない國際問題となつてゐる。

世界全般では、核兵器、原發、軍縮、異常氣象對策、地球環境、人口調整、食料確保、エネルギー確保、貿易摩擦、宗教紛爭、民族紛爭、地域紛爭などの國際問題が山積し、各國でも、交通澁滯、都市集中、水質汚染、廢棄物處理、教育、醫療、福祉、介護など數へれば切りがないほどの樣々な問題を抱へ、さらに、一方では人工爆發の問題があり、他方では高齡化、少子化の問題があるといふやうに、問題が個別化する樣相を示すなど、これらの問題が一國では解消しえない程度に至つてゐる。

さらに、我が國では、これらの問題に加へて、政官財(業)の癒着腐敗による混迷、官僚制の弊害、官僚の組織的不正、政治家の能力低下、瑣末な論議に終始する政治の空白、出生率の低下と就業可能人口の減少による國勢全般の下降傾向、醫療・厚生・福祉・介護、年金などの關連豫算の增加傾向、高齡化社會對策の不備、過疎化、農村崩壞、さらに、水・食料・資源・エネルギーなどの「基幹物資」の自給率の低下、コメの自由化などによる農業の疲弊、經濟貿易摩擦、ODAの擴大、占領憲法の呪縛と自衞隊のあり方、PKO活動、周邊事態、對米從屬の弊害などの多くの問題に直面してゐる。

 政官財(業)は三位一體となつて國際貿易を推進してきたが、これらの體制を支へる多數決原理の民主主義が形骸化し、官僚統制國家(全體主義國家)に陷つたために、思考が硬直化してゐる。そのため、これらの諸問題を效率良く解消しうる理念や、その解消のための總合的政策が立案されず、刹那的政策又は無策による混迷と無明が續いてゐる。これは、日本だけに限らず世界共通の事態であり、このままの状態が續けば、問題はさらに深刻となり世界各國は悉く破局を迎へる危險が迫つてゐる。

さらに、産業構造を支へる基盤においても變化が生じてゐる。マルクスが指摘したやうな、資本家が勞働者(プロレタリアート)を搾取し、勞働者が窮乏化するといふ一方方向のみの問題はなくなり、その後の資本主義社會は、勞働者が「消費者」となることによつて、勞働者は單なる搾取の對象ではなくなつてきた。資本家に支配され搾取される勞働者が、その得た賃金を以て商品購買力を持つ消費者として資本家の前に登場し、商品のより高い付加價値を求めることによつて、逆に資本家の活動を推進させ支配するといふ循環的な協力關係が構築された。この循環の中において勞働運動は終息し始める。しかし、このことは、資本家と協力關係を濃密に構築する富裕層の勞働者を生み出したものの、新自由主義(市場原理主義)が席卷することによつて、絶對貧困層を增大させ、この絶對貧困層は次世代勞働者を供給することが不能となつてゐる。新自由主義經濟下で不安定な雇用關係や勞働状況にある非正規雇用者や失業者を、precario(不安定な) Proletariato(無産階級)といふ意味のプレカリアート(伊precariato)といふ造語で總稱することがあるが、これは、まさしく新たに爆發的に增大しつつある絶對貧困層のことである。結婚、出産、育兒といふ過程を經て、次世代勞働者を社會に送り出す母體となる家族生活をすることが經濟的貧困のためにできない。結婚ができない。出産ができない。育兒ができないのである。これは將來における勞働の供給不能といふ側面もさることながら、「倉廩實ちて禮節を知り、衣食足りて榮辱を知る」(管子)ことができず、延いては家族の崩壞といふ由々しい事態を招く。そして、その貧困層の老齡化による社會福祉費の增大によつて、資本家と富裕勞働者層との協力循環の規模は縮小し、勞働運動は絶對貧困層についてのみ生き續け、より過激な方向になるであらう。「格差社會」といふのは、勞働者層の二極化のことであり、マルクスが豫測しえなかつた新たな「窮乏化理論」が登場しうる社會となりつつあるのである。

ところが、前述したとほり、現在の經濟學は、これを是正するための經濟思想や經濟理論の構築を放棄してゐる。そのため、新自由主義(市場原理主義)に對する齒止めがないまま、生産至上主義がさらに增殖し續けるのである。

続きを読む