國體護持總論
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著書紹介

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生産至上主義の修正と破綻

これらの生産至上主義の矛盾を克服しようとして、過去に幾つかの修正が試みられた。

その第一の修正主義は、「福祉主義」である。これは、生産至上主義の歪みである貧富の差の擴大を政府が是正しようとして、補助金支出や福祉豫算支出などを試みて、富の再配分を圖らうとすることである。しかし、生産至上主義の最大の恩惠を受けてゐる事業者がその財源を負擔するのではない。支出財源は税收入であつて、あくまでも間接的な再配分である。しかし、税制の歪みから事業者には負擔が薄く、消費税などのやうに國民からの均等調達によつてゐる。これは、税制と税率の樣相によつては、事業者と勞働者との間での再配分ではなく、勞働者間だけの再配分となることが多い。それは、勞働者層のうち富裕層から貧困層への間接的配分となる場合もあるが、富裕層の負擔が少なく、主として中間層から貧困層への再配分になつたり、極端な場合は、貧困層間の再配分となつてしまふこともある。

また、福祉主義では、産業活動に伴ふ事故や災害などの被害についても、各産業部門の受益者負擔の原則は貫かれてゐない。これは、政官財(業)の構造的癒着によるものであつて、福祉主義とは、生産至上主義を修正するのではなく、その矛盾を隱蔽して、生産至上主義による政策をさらに推進しようとする理念にすぎない。生産至上主義の延命を目的とする理念である。また、福祉豫算の增大が行はれても、その增大部分の大半は、福祉の分業化による經費の增大に吸收されて、直ちに福祉の充實には結びつかない。即ち、社會的弱者を援助・介護する人員や施設が專門化して複雜となり、それらを維持管理する固定經費が增大するに過ぎず、要保護、要介護の人々のための實質的な福祉の增進とはならないことが多い。さらに、補助金行政の弊害も深刻である。これも社會的弱者救濟の名目でなされてゐるのであるが、補助金に依存した弱者體質をさらに促進するに過ぎず、結果的には、補助金支給がなければ生存すら危ぶまれる社會的弱者の擴大再生産をしてゐるに過ぎない。これは、ホルモン注射をし續ければ、生體内のホルモン生成臓器を退化させ再生不能に至らしめる恐ろしさと同じである。

これが、國内に留まらず、國際化した現象がODAであつて、社會的弱者の自立更生の道を閉ざし、支配者に生殺與奪の權利を完全に付與する構造體質を完成させる。これは、現代的奴隷制社會の到來である。

このやうな福祉主義政策の矛盾は、先づ、初期の局地的な産業公害問題や環境汚染問題の發生となつて現れた。産業公害問題や環境汚染問題は、生産至上主義の矛盾であり、その根本解決は、少なくとも生産至上主義を換骨奪胎しなければならなかつた。ところが、その公害を直接に發生させてゐる企業と、その企業の監督を怠つた政府の責任であるとの「企業責任論」や「政府責任論」で片付けられた。さらに、この企業責任論は、訴訟的結果責任論であり、將來發生しうる企業責任を自覺させる意味を含んでゐないため、この將來の責任の引き受けを求める「企業の社會的責任論」へと展開していつた。ここでは、企業と政府が惡、國民が善といふ善玉惡玉二分論による認識であり、生産至上主義の終局的恩惠を享受してゐる社會そのものの責任といふ觀點が缺落してゐた。

このやうな情況の下で、産業公害はさらに進んで、現在の地球規模に至る環境問題が發生したため、今度は、善玉惡玉二分論では説明がつかなくなつてしまつた。そこで、企業の社會的責任論をさらに敷衍し、經濟成長と環境保護とを調和させるために、生産至上主義による經濟發展を抑制しようとする「減速經濟主義」が登場した。そのスローガンは、「地球にやさしい」である。しかし、今、地球が病んでゐるのに、「地球にやさしい」といふのは矛盾である。病人を優しく手心を加へて慢性的に痛め續けるといふ、殘酷で陰濕な「イジメ」に似たものであつて、決して病氣を治療するためではない。これは問題を解消しつつ産業を發展させるのではなく、問題の發生速度を緩めつつ發展を考へるにすぎない。地球環境の改善は、一個人や一企業の自覺と努力も必要ではあるが、そんなものだけでは根本的な解決はされない。これまでの管理會計的な側面に、環境會計的な手法として、マテリアルフローコスト會計(MFCA)などの小手先だけの技法が編み出されてゐるが、社會構造自體を變革することの自覺と努力がなければ環境問題の解決は不可能である。社會構造に手を付けずに、大量生産、大量消費の社會構造に身を置いたまま、趣味的な自覺と努力で一人一人が節約を續けるといふ考へ方は、新たな福祉主義として位置づけられるが、いづれも理念と現實において破綻してゐるのである。

ところで、共産主義は破綻したが、先に述べたとほり、企業と政府が惡、國民が善といふ善玉惡玉二分論は、共産主義者が抱く企業に對する單細胞的な憎惡を共有してをり、その背後にある生産至上主義の矛盾に氣づかない愚かさゆゑに、共産主義者の殘黨にとつては「渡るに船」の思想となつたのである。

次に、生産至上主義の修正主義の第二として擧げられるのは、金日成の「自力更生論」と、これを人間中心主義の哲學的原理までに發展させたとする「主體思想(チュチェササン)」である。

ところが、現在、朝鮮民主主義人民共和國(北朝鮮)が、人間中心主義ではなく、個人崇拜と絶對者中心主義によつて、人民に暴力と飢餓を與へる彈壓が繰り返され、日本人を含む多数の他國人を拉致するなど、邪悪な獨裁体制による犯罪國家であることからすると、この理論には致命的な缺陷があつたことを推認して餘りあることになる。

しかし、北朝鮮の政治形態の評價と主體思想自體の評價とは、一應これらを切り離して檢討するとすれば、北朝鮮の政治形態と主體思想との歪みは、ヤルタ・ポツダム體制に對抗する第三世界の實情と分斷國家の國民の悲劇を象徴してゐるものと思はれる。

この「自力更生論」とは、當時、中ソ論爭の狹間に立つた第三世界建設の獨自の理念として、社會主義國際分業内にあつて、可能な限り自力で重工業などの基幹産業について民族的な自立經濟を創造するとの思想であり、また、「主體思想」とは、「人間があらゆるものの主人であり、すべてを決定する。」との基本認識に立ち、マルクス・レーニン主義の物質偏重思考に對して、人間の主體性を絶對的決定要因とする思想であるとされた。つまり、理念としての「自力更生論」と「主體思想」は、物質偏重思考から脱皮し、民族自決と自給自足經濟の確立に向けた過渡的な試みである點において評價しうるのである。

ところが、自力更生論といふのも掛け聲だけの無内容なものであり、共産圈内での分業體制を自國に有利に構築したいとする願望に過ぎず、自給自足經濟への道にはほど遠いものがあつた。また、主體思想といふ人間中心主義は、進歩・發展とは人間と自然との對決において人間が勝利を收めることであつて、これは、單線的進歩發展史觀に毒された生産至上主義の眞髄に他ならないのである。

しかも、生産、流通、消費といふ一方通行だけで、再生の觀點が缺落してゐるのは、やはり、人間中心主義であるためであつて、必然的に地球的限界に直面することになる。

それゆゑ、これらの思想は、共産圈に屬しながら第三世界の建設といふ政治的空想を抱き、しかも、自給自足經濟の確立のための手段と方法が何一つ提示できない空理空論であつたため、生産至上主義の矛盾を克服するどころか、それに浸りきつたものであつて、大言壮語の掛け聲だけに終はつた。そして、そのことは、北朝鮮の現在の政治状況が如實に示してをり、中共を含めその他の第三世界においても、「開發獨裁」といふ全體主義的な生産至上主義を指向してゐることと無縁ではないのである。

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