國體護持總論
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著書紹介

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經濟的自立

このやうな反グローバル化運動とその背景理念となる新保護主義が示唆した方向は正しい。このグローバル化に抵抗する國家や人々がそれぞれの自己保存本能と自己防衞本能などの「本能」に基づくものであることが認められるからである。

これほどまでに世の中が複雜になり、學問や技術はさらに微細になるだけで、しかも、それは分業體制を推進する方向であるために、人々は心と生活の安寧を得られず、決して幸福感を與へてくれるものではない。世の中を根本的に見直す術を誰も提示することがないことに對する焦燥感に充ち滿ちてゐる。しかし、人々は、共産主義思想のやうに暴力的で流血を生む過激で憎惡に滿ちた世界思想には辟易してゐる。反グローバル運動を直觀的に肯定的に受け入れてはゐるものの、それが過激化し憎惡を剥き出しにした最近の運動態樣に對して、冷ややかな拒否反應と警戒心を芽生えさせてゐる。そして、そのやうな憎惡を含んだ過激なものではなく、未知の「何か」が人類の本能の中に濳んでゐて、それが具體的な叡智として出現し、平和で安心を與へる安定した社會を再生しうる鍵であると直觀してゐるのである。

我々の認識世界には、直觀世界と論理世界とがある。つまり、論理を積み上げて眞理を認識する世界と、論理を飛び越え、あるいは論理の盡きたところで、經驗と閃きによつて眞理を認識する世界との二つの世界がある。直觀は本能に、論理は理性に、それぞれ根ざしてゐる。また、眞理發見のための推理方法として用ゐられる歸納法は直觀世界に親和性があり、演繹法は論理世界に依存性がある。

哲學や數學において、直觀か論理か、そのいづれを認識の基礎とするかによつて直觀主義と論理主義とが對立してをり、特に數學基礎論にあつては、數學を論理學の一部と見るか、あるいは論理が數學的直觀によつて歸納されるのか、といふことである。これは、數學の體系を構築するにおいて、いづれかの選擇が必要とされるためである。しかし、この對立自體が論理世界の土俵における論爭に過ぎない。つまり、論理世界においては、排中律(Aか非Aかのいづれかである。)及び矛盾律(Aは非Aでない。Aであり非Aであることはない。)などで貫かれてゐるとするのであるから、この對立は、やはり論理世界の住人同士の對立と云へる。

しかし、現實の世界は、直觀か論理かといふ二者擇一の世界ではない。直觀世界を解明しようとして、これまで多くの人々が試みてきたが達成できなかつた。法律學、憲法學、政治學、經濟學などの社會科學もまた論理學を基礎とするものであり、論理世界から直觀世界を解明し、眞理に到達することには構造的な限界があつたのである。論理世界によつて直觀世界が解明できるとすれば、直觀世界は論理世界の一部として包含されてゐなければならないが、そのことは證明されてゐないからである。むしろ、直觀世界からすれば、論理世界は直觀世界の一部を構成して包含してゐると「直觀」される。それが、「論理が數學的直觀によつて歸納される」とする數學基礎論における直觀主義の根據ともなつてゐる。

歴史的に見ても、人々は、その人生を演繹的な論理のみを驅使して生きてはこなかつた。むしろ、特に、人が人生の岐路に立つたとき、あるいは緊急時においては、演繹的な論理を捨てて、瞬發的に歸納的思考の本能的な直觀によつて岐路を選擇し歸趨を決してきたのである。そのことに必ず眞理があるはずである。

オントロジズム(0ntologism)といふ哲學上の立場がある。存在論主義(本體論主義)と譯されてゐるが、これもプラトン以後の哲學でみられる直觀論である。これは、時空間において「有限世界」の現世に生きてゐる人間が、論理的かつ客観的には認識不可能な「無限世界」の存在(神)を論理で捉へることはできず、それは純粹直觀でのみ捉へることができるといふものである。人間が論理的に認識しうる最大の數値があるとしても、それはあくまでも有限の數値であつて、決して無限の數値といふものは存在しえない。無限を認識しうるのは論理ではなく直觀である。このやうにして、人間は直觀世界に居ることを認識し、論理の危ふさを歸納的に實感するのである。

このことは歴史的にみても、その歸納的な正しさは證明されてゐる。たとへば、イギリスでの話を擧げてみよう。イギリスでは、穀物の輸入に高い關税を課す穀物條例が一部の者だけを利するだけで國家全體の利益にならないとのリカードの意見に支配されて、穀物條例を廢止して穀物の輸入自由化に踏み切つた(1846+660)。その結果、それまで百パーセント近い小麥の自給率が十パーセント程度に落ち込み、二度の大戰中に食料難となり食料調達に苦しんだのである。そこで、昭和二十二年(1947+660)に『農地法』を成立させて食料自給率の向上を推し進めたのである。このやうに、大きく政策轉換をした結果、イギリスだけでなく、西ドイツ、フランス、イタリア、アメリカ、カナダは、昭和五十七年(1982+660)ころまでに食料自給率を百パーセントを超えるまでに回復し、完全にリカードの論理から脱却した。リカードの論理は、歸納的に否定されたのである。ところが、我が國は、前章の「自給率」の項目で述べたとほり、未だにリカードの論理の呪縛から逃れられず、食料自給率は低迷し續けてゐる。

しかし、リカードの自由貿易主義が世界の不安定化要因であり、世界はこれからの脱却が必要であるとしても、そのことから直ちに、この反グローバル化運動の理念となつてゐる新保護主義の理論が完全に正しいとは云へない。この理論を適用した生活が正しいか否か、實現可能か否か、そして、持續可能か否かを判斷するについては、これまで述べたとほり、個體と家族、地域と國家、それに世界、地球といふ自己相似の連續が動的平衡を保つて存在するといふ雛形構造(フラクタル構造)に適合する無理のない重層構造の世界を構築できるものであるのか、それが「本能」といふ指令に背かないのか、といふ點を檢討することに盡きる。

そこで、そのことを考へるに先だつて、もう一度、國家の本能がなにゆゑにこのグローバル化に抵抗してゐるのか、その本能の樣相について檢討したい。

思ふに、世界には、大小樣々な獨立國家が存在してゐるが、それらが獨立國家と呼ばれるのは、その國家が獨立を宣言し、それが國際的に承認され、獨自の統治權の行使と貿易における經濟的獨立(經濟主體の確立、經濟主權)として認められるといふことである。ところが、賭博經濟が國境を越えて席卷するやうになり、金融資本もまた國境を越えて流入してくると、經濟主體であるべき獨立國家の性質に變化を生じさせる。

經濟主體としての國家を考へるとき、完全自給のアウタルキー(自給自足經濟)の國家の場合は、貿易による物流や情報の流入がないので、物理學でいふ「孤立系」に似てゐる。そして、その對極にあるのが、自給率ゼロの國家であり、これは「開放系」といふことになる。つまり、完全にグローバル化した状態である。これは、國家滅亡の一つの形態であり、グローバル化とは、世界均一化といふよりも、世界單一國家化といふことである。

そして、現代の多くの國家は、その中間的な「閉鎖系」に似たものといふことができる。つまり、國民も領土も、國際規範も情報も、そして物資もエネルギーも、他國と相互に交換しうるが、國民と領土については、國際規範や情報、物質とエネルギーほどには流動的ではないからである。

前に述べたとほり、「經濟」の語源は、「經國濟民」、「經世濟民」であり、國を治め民の苦しみを救ふといふ意味であつて、本來は「政治」の意味であつたことからすれば、政治と經濟とは不可分一體のものと捉へても不自然ではない。さういふ觀點からすると、獨立國とは、政治的自立と經濟的自立の雙方が備はつてゐる状態のことであると認識することもできる。

國際社會の中で、政治と經濟とは不可分の關係であり、「獨立」について、これまで政治的自立を中心に一般的なことを述べてきたが、眞の獨立を考へるについては、むしろ、この經濟的自立こそが國家の命運を左右することになる。

なぜなら、家族の場合を例にとれば、家族が獨立してゐるといふのは、眞つ先に經濟的自立、つまり家計が他の家族と獨自に成り立つてゐることを意味し、ある家族が所有する大きな家の離れに、別の家族が一家ごと居候をして生活費のすべてをその家族に面倒を見てもらつてゐる「保護家族」は、家族であつても自立した存在とは誰も思はない。これと同じやうに「保護國」についても獨立してゐるとは云はない。政治的な保護國もあれば、經濟的な保護國もある。

その保護が片面的、一方的な場合であればこのことは當然と思ふであらうが、多くの人は、貿易によつて自給率を下げた程度では、經濟的自立を失つたとは思つてゐない。現に、家族の場合でも、どこからか給料を得て、生活必需品などを購入して生活し、誰にも金錢的援助を受けてゐなければ、その家族は自立してゐると思つてゐる。確かに、平常なときはさうであるが、勤め先の會社が倒産して給料が入らなくなつたとき、一次的には借金をして凌ぐことはできても、再就職して元の給料以上のものが入つてこなかつたら、政府や誰かの援助を受けることになる。そのときは、やはり家族の自立は奪はれる。

このことは、國家も同じであり、平常時は、政治的自立を謳歌してゐたとしても、なんらかの異變によつて基幹物資が調達できなければ、たちどころに國家存亡の危機に直面する。しかし、眞の獨立といふのは、そのやうな局面においても、對處できるものでなければならない。「備へあれば憂ひなし」といふが、假に、基幹物資の大量の備蓄があつたとしても憂ひはある。いづれ費消して枯渇するからである。眞の備へとは、基幹物資の自給自足體制の確立しかない。このことこそが國防の根幹であり、獨立の眞姿である。

食料危機に備へた食料備蓄(食糧備蓄を含む)についても、我が國において完全自給ができる米(稻)について、政府の行ふ減反政策は、まさに亡國の政策である。しかも、米(稻)を備蓄する政策を全く實施してゐないのである。米の備蓄は、劣化が早い「精米」や「玄米」の状態では不可能であり、種米の確保と食糧米の長期保存備蓄を兩立しうる「籾米」の状態での備蓄でなければならないが、政府にはその認識に基づく政策立案能力がないのである(佐藤剛男)。籾米の備蓄といふ考へは古くからあつた。その昔、加藤清正は、熊本城築城において、籠城に備へて、充分な籾米を備蓄した上に、さらに壁を籾米を混ぜた土で塗り固めたのである。

稻作農業は、日々の食糧の供給のみならず、このやうな籾米備蓄による國家緊急時に對應しうる基幹産業であつて、林業と一體となつて水源を涵養し治水に貢獻するものであるから、減反政策による休耕田の增加は、食料安保の觀點からも、將來において最惡の結果を招くのである。

第一章で述べたとほり、戰前、我が國は、食料安全保障の見地から、主として米(稻)の確保のために韓半島に近代的農業政策を推進したが、關東大震災、金融恐慌及び世界恐慌で疲弊した農民に追ひ討ちをかけるやうに、内地への米(稻)の過剰流入などによる米價の下落を招くこととなり、その結果、内地と韓半島の共倒れ的な農民の疲弊と農村の崩壞を生んだ。そして、これが、二・二六事件から敗戰に至る遠因でもあつたのである。このことの教訓からしても、休耕田の耕作再開によつて增産される米(稻)が、そのまま流通米(消費米)となれば米價の下落を生むことになるが、備蓄米として出荷調整するのであればその影響はなく、むしろ農業の維持振興となり、農業人口の減少を阻止し、農業關連の雇用創出に結びつく。むしろ、生産される米(稻)は、原則的に籾米として各地の消費地近郊で備蓄し、消費に向ける段階で精米化することにすれば、危險分散と出荷調整による米價の安定が實現できるのである。そして、これと連動して、その他の農業、畜産業、林業及び漁業の振興策により自給自足體制へ歩み出すことになる。

しかし、このやうな政策轉換により、假に、自給自足體制を確立したとしても、國家の緊急時(戰爭、内亂など)には、物流の混亂などの影響で安定供給の維持ができなくなるといふ憂ひはある。しかし、その憂ひは、基幹物資の自給率が小さい國家が緊急事態となつた場合と比較して雲泥の差がある。そして、完全自給が確立してゐる場合や自給率が相當に高い場合は、その緊急事態に至る可能性も少なくなる。なぜならば、内亂はともかく、戰爭の場合、自國と比較して相手國の自給率が小さければ小さいほど、自給率の高い國は、自給率の低い相手國よりも戰爭遂行能力において優位に立てる。勿論、大量破壞兵器の保有の有無によつて、その樣相に變化を生じさせることになる。それゆゑに、これも世界の不安定化要因の一つとして掲げてゐるのである。しかし、現代の戰爭は、基本的には國家の總力戰であり、國家の「地力」(高い自給率)が開戰の抑止力と早期停戰講和の推進力となり、戰爭遂行能力を決定付けることに變はりはないのである。

「不虞に備へざれば、以て師すべからず(不備不虞、不可以師)」(左傳)とか、「國に九年の蓄へなきを不足と曰ふ。六年の蓄へなきを急と曰ふ。三年の蓄へなきを國其の國に非ずと曰ふ。」(禮記)との名言は、このことを教へてくれるものである。

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