國體護持總論
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著書紹介

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第一次産業

さらに、食料の自給に關連して、米(コメ)について考へる。當初、米(コメ)の自由化要求に對して、「一粒たりとも入れてはならない。」との主張があつたが、これは過去の「攘夷論」のやうに、その後の政策展望を持たない情緒的なものであることは否めない。しかし、この主張は、連合國の走狗となつて食料自給率をさらに低下させることに「寛容」な貿易立國論者よりも、「危險」に對する本能的感性は優れてゐる。この議論は、實は、前述のとほり、自立再生論へ轉換するか貿易依存を維持するかの選擇を迫られてゐる根本問題なのであるが、「食料安保」の中身が全く認識されてゐない不毛の議論でもある。しかし、この足下の問題は、自立再生經濟の理解を深める絶好の機會であつて、その轉換をはかりうる好機なのである。

ところで、米(コメ)だけに限らず、第一次産業の農業、畜産業、林業、漁業などの在り方については、現在のところ基本的には「大規模集中型」の供給體制によることになる。それは、供給效率や産業の性質による制約に由來するからである。

特に、日本の稻作農業は林業と一體となつて水源を涵養し治水に貢獻してきたものであり、現在の地勢や土地利用を大きく變更することは國土自體の生態系を攪亂させることになる。我々の祖先は、「森の惠み」による「木の文化」と「稻の惠み」による「米の文化」とを融合させ、自然を破壞することなく「修理固成」を實踐された。崇神天皇の詔に、「農天下之大本也。民所恃以生也(なりはひはあめのしたのおおきなるもとなり。おほみたからのたのみていくるところなり。)」(日本書紀卷第五、崇神天皇六十二年秋七月の條)とあり、垂仁天皇の詔にも、「以農爲事。因是、百姓富寬、天下太平矣(なりはひをもてわざとす。これによりて、おほみたからとみてたゆたひて、あめのしたたひらかなり。)」(日本書紀卷六、垂仁天皇三十五年の條)とあるやうに、稻作農業は、水と土の賜物である「命の根」の稻を生み育て、しかも、森によつてその水が涵養されるといふ奇跡の農業である。保存のきかない馬鈴薯(ジャガイモ)よりも、蛋白質が少なく加工しなければ食することのできない小麥よりも、味が濃厚で主食には向かない甘藷(サツマイモ)や玉蜀黍(トウモロコシ)よりも、格段に栄養價が高く栄養バランスがあつて美味かつ淡泊であり、しかも、生産性が高く、そして、長期の保存備蓄が可能な主食は、世界を見渡しても稻米以外には存在しない。それゆゑ、この稻作を守つて完全食料自給を達成し、米の增産により籾米備蓄をして國富を實現し、さらに、この稻作文化を世界に廣めて世界の食料不足を補ふことこそが眞の國際貢獻なのである。

我が國の稻作は水田耕作であるが、世界的な水資源の偏在状況からすると、水稻のみではなく、陸稻の品種改良が望まれる。現に、三千三百年から三千二百年前のものとされる佐賀縣唐津市菜畑遺跡の遺構から、雨期は水田、乾期は畑として、水稻と陸稻の兩用の稻が他の五穀とともに栽培されてゐたことが判明したことからすると、陸稻種の改良によつて稻作を世界の乾燥地にも普及することも不可能ではないことを示唆してゐる。

齋庭稻穗の御神敕(資料二3)の「齋庭之穗」は、「ゆにはのいなのほ」と訓じられてゐるが、「稻穗」との表記ではない。ましてや、「齋庭」を水田に限定する解釋にも明確な根據はない。それゆゑ、米(稻)以外の五穀、雜穀の「穗」と理解してもよいはずである。また、延喜式祝詞にも「八束穗之伊加志穗(茂穗又は嚴穗)」(やつかほのいかしほ)とあり、これも稻穗に限定されたものではない。さうすると、稻作を中心とするも、決して稻作の單一耕作(モノカルチャー)ではなく、五穀、雜穀との混作が必要となる。課題としては、耕地も限界があり、しかも、労働力にも限界があるので、單位耕作面積当たりの收穫量とそれに要する労働量との相關關係と国土利用の效率を重視して第一次産業のあり方を策定することになる。

そこで、農業、畜産業、林業、漁業などについては、技術面、經營面などの直接的な側面の外に、農村・漁村などの過疎對策・後繼者問題などの間接的・多角的な側面からも、農用地、森林及び漁場等の適正保護や流通部門の整備を含め、自給率向上のための總合的な改善計畫の實施が必要となつてくる。しかし、これと併用して、都市近郊地域や都市部の農用地を整備し、「小規模分散型」の食料供給體制をも檢討すべきであらう。觸媒技術、發酵技術、溶液栽培技術、養殖技術などの小規模分散型農業・畜産業・林業、漁業に適した技術開發がなされれば、食料の生産者と消費者の一體化が實現する。これは、これまで「都市機能の集中化」、「農村の都市化」が進歩であるとした野蠻なる西洋文明論を捨てて、逆に、「都市の農村化」へと劇的な政策轉換を實現することなのである。まさに、自立再生論は、この「都市の農村化」をスローガンに掲げる運動でもある。

「都市の農村化」といふのは、地域的なものであり、人的には「市民の農民化」といふことである。これは鎌倉時代における「一所懸命」にも似た「土への愛着」を復活させる國民運動である。それゆゑ、當然に「農民の市民化」と「農村の都市化」を阻止することになる。ただし、ここで農村とか農民といふ言葉は、象徴的に用ゐてゐるもので、農村、山村、漁村などの第一次産業の集落全體を意味し、あるいは農民、杣人、漁民などの第一次産業に從事する者全體を云ふ。

ともあれ、この「都市の農村化」、「市民の農民化」のためには、農民の市民化を防ぐための農地再生、農村復興の政策が必要となつてくる。現行『農地法』では、農民が市民化することは認められても、市民が農民化することには大きな障碍がある。『農地法』は、農民ギルド制を採り、實質的には農民間でなければ農地の賣買はできない上に、農民が農地を非農地に轉用することを安易に認めてゐるからである。GHQの占領政策である自作農創設特別措置法により農地を取得した農民が農地を非農地に轉用し農地を潰して亂開發することは、この法律の制度趣旨に反するものであり、この法律によつて得た戰後利得の著しい惡用・濫用であると云へる。それゆゑ、非農地に轉用して賣却し亂開發することを原則的に全面禁止し、市民の農民化を促進させて、市民を農業に新規參入させ就農を促進するために農地賣買の自由化を圖ることが喫緊の課題となる。農地は國家の財産であり、皇土保全のために、農民には離作の自由はあつても轉用の自由は認められない。

前に述べたとほり、田畑に排泄物を撒き散らす行爲が律令制度において重罪とされたのは勿論のこと、それ以上に、田の畔を破壞する畔放(あはなち)、田に水を引く溝を埋める溝埋(みぞうめ)、田に水を引く樋を破壞する樋放(ひはなち)などの農耕灌漑妨害行爲は古來より天津罪として重罪とされてゐた。作物を育て命を育む田畑は聖なる土地であり、これを汚すことや破壞することは許されないためである。そのことからすると、農地を潰して非農地へと復元不可能な轉用をすることは、いはば、國家財産の農地を「殺す」ことであり、一時的な汚損や破壞をすること以上の重罪であつて、何人もこれを爲してはならない。また、自作農創設特別措置法によつて得た農地を小作に出すことは許されず、速やかに小作人に拂ひ下げさせるなどして「新たな農地解放」を實現させる必要がある。

また、食料については、安全、安心、安定したものでなければならない。そのためには、「近くて遠いもの」といふ原則を確立する必要がある。まづ、「近くて」とは、生産地と消費地とが近いといふことで、「地産地消(地域生産地域消費)」のことである。食料の重量と輸送距離の積(フードマイレージ)を減少させることは、自立再生經濟への道を進むについて必要不可缺な課題である。また、地球規模での水資源の危機が叫ばれる中で、農畜産物の生産や製品を製造し、輸出入をすることは、その生産・流通の過程で使用された水の總量を購入者が間接的に消費したことになるに等しいとの認識から、前述の「假想水」(バーチャルウォーター)といふ視點で考察しても、水資源の節約は水資源を含む資源の自給率の向上以外にありえないのである。農畜産物も水産物も、自給率を向上させ、自給自足の閉鎖循環系を極小化しうる方向へと進めば、食の安全において絶大な效用をもたらすことになる。

つまり、地産地消の方向へ進むと、生産物について、その生産者の實像が消費者に知られることになるから、生産者としては消費者に安全と安心の供給を續けることでなければ地域で生産活動と生活ができなくなるので、食の安全は一層保証されたものになるからである。そして、「地産地消」の究極は、生産者と消費者の分離が解消され、「自作消費」の生活へと進展する。これこそ效用均衡理論に基づくものである。

ところが、現在、樣々な問題があるやうに、生産者や生産物が外國とかの遠方であれば、食の生産段階での毒物混入などを監視することはできないし、輸送において、輸送距離が長いために燃料等の基幹物資の消費が增え、しかも、輸送時間の長さからポスト・ハーベストなどの問題が生じる。原價計算をして安ければよいといふものではない。

また、「近い」といふのは、生産地と消費地との地理的な距離(産地との距離)だけではなく、食事で攝取する物に至るまでにその素材が加工される工程の距離(素材との距離)についても同樣である。これは、「土産土法」に通ずるものがある。土産土法とは、その土地でとれた旬のものをその土地の伝統的な調理法で食べることである。

現代社會では、産業が分業體制によつて細分化、多段階化されることに連動して、食物もまた加工、精製の細分化、多段階化が進行してゐる。多種多樣な食物素材が調理されて實際に人の口に入るまでに、收穫、生産、流通、加工、精製、販賣などの過程を經ることになるが、加工食品やファースト・フードなどの樣に、複雜に細分化、多段階化した「食料品」は、工業製品と同樣の分業化に支へられてゐる。また、加工食品の運搬、流通に不可避的な梱包、開梱、分類、陳列、包装などの過程もまた多くの梱包用資源の消費と分業の細分化、多段階化をもたらすことになる。このやうな分業度と加工度、精製度、そして流通度の高さは、食品添加物の種類と量を增え、異物や毒物が混入する危險度が增し、同時に奢侈化と飽食化を促進させ、殘飯などの食物殘渣が大量發生するといふ惡循環を繰り返すのである。そして、そのうちに、おふくろの味を樂しむ家庭料理は消え失せて「全國總給食化」の時代に突入し、家族が揃つて家族団欒の機會がなくなり、「孤食」(獨りの食事、時間的に別々の食事)が增える。假に、家族団欒の機會が殘るとしても、家族で同じものを食べるのではなく、「偏食」が恆常化した「個食」(同時に一緒の機會に食事をするものの攝取する物がそれぞれ別々の食事、バイキング)となる。しかも、その行く手には、いつ襲つてくるか解らない極端な食糧難による「飢餓」が待ち受けてゐるのである。これを回避するためには、一刻も早く自立再生論により、食物の分業度、加工度、精製度、流通度を徐々に低下させて自給率を高めることしかない。

次に、「遠いもの」といふのは、食肉、乳製品に偏つた食習慣から離れて行くことである。特に、乳製品からの完全離脱が必須となり、酪農は將來には廢止される必要がある。乳兒のときから殆ど母乳で育てずに乳製品に頼り、母乳攝取が著しく減少して行く姿は、長い目で見れば、人類が哺乳類から離反して人類自體が退化して行く現象を示してゐる。母性の目覺めと強化は授乳にあることからすると、この現象は母性の低下を引き起こすことでもある。いつまでも乳離れせず、いつまでも大人になれない姿が、哺乳類から離反して人類自體が退化して行くことを暗示してゐるのかも知れない。  また、北歐民族の例外はあるが、人類の多くは、カルシウムの吸收に必要なラクターゼ酵素が離乳(斷乳)時以後に激減し、ラクトース(乳糖)を加水分解できなくなる。日本人もその例外ではない。つまり、離乳後に行ふ乳製品の攝取は、榮養攝取面での貢獻は少なく、逆に、相對的にはカルシウムの攝取不足や動物性脂質の過剰攝取によるアテローム硬化などを引き起こし、情緒不安定症や骨粗鬆症、生活習慣病などの增加と低年齡化の原因となる。

さらに、肉食について言及すると、まづ、牛肉一キログラムに必要な穀物は十五から十六キログラムが必要とされることから、肉食は食料効率が極めて低い方法なのである。食物連鎖として穀物と人間との間に牛を入れると穀物の浪費となるので、人間が肉食から離れて直接に穀物を食べれば、世界の食料事情は著しく改善されるのである。また、腐敗の「腐」の字に「肉」があるやうに、肉は人の腸内において腐敗する。腸内の惡玉菌が食物のタンパク質やアミノ酸を分解するとき、インドール、スカトール、アンモニア、アミンなどの惡臭の物質を作る。これが發癌性物質に變はりやすいのである。小腸の長さの平均は、食肉習慣の食性がある歐米人の場合は約五メートル、穀物攝取の食性がある日本人の場合は約七・五メートルである。これは、肉の消化は早く、米(コメ)などの穀物の消化は遅いので、穀物の消化に必要な分だけ小腸が長くなつたためである。ところが、日本人の食性が肉食を主體とするやうに變化することになると、肉食としては小腸が長すぎることになり、その長い分の小腸では、消化した肉の殘渣の腐敗とその腐敗物の吸收が始まり、それが萬病の原因となる。そのことは、パン食についても同樣で、パンの消化は早いので、やはり小腸は長すぎることになる。ましてや、パン食の場合は、乳製品と肉との併用がなされるから、その弊害は倍加することになる。餘談ではあるが、張り込み刑事が食する定番は、「あんパンと牛乳」とされてゐたが、これは占領期の食料事情を反映するものであり、さらに、それが多くの弊害を生みだした象徴(小腸)となつてゐるものと云へる。

そもそも、人の齒竝みからして、人間は穀物を中心とした雜食性であり、系統發生的には人類から遠い生物をなるべく攝取する食生活習慣にすることが身體と精神の健康によいことは云ふまでもないことだからである。

このやうにして、「近くて遠いもの」の原則によつて、食の安全、安心、安定を實現して行くのである。佛典に「身土不二」といふ言葉があるが、これとは全く異なる意味で、明治後期に食養會(大日本食養會)が、地元の食品を食べると身體に良く、他の地域の食品を食べると身體に惡いといふ意味で普及させ、それが現在では韓國などでも使はれて定着してゐる。土壤で育つた作物を攝取して、それによつて身體を維持するものであるから、身體と土壤とは不可分一體であるとの意味に理解すれば、アメリカにも、「You are what you eat」(貴方とは、貴方の食べたもののことである)といふ言葉があり、これも同じ方向を示す考へである。

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