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いはゆる「保守論壇」に問ふ ‹其の九›沖縄と憲法

来る4月28日は、本土における主権回復の日であるとされてゐる。それは、昭和27年のこの日に、日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約。以下「桑港条約」といふ。)が発効し、日本が主権を回復したとすることにある。

しかし、この日の意義は、国の内外において素朴に祝賀できるほど単純なものではない。桑港条約発効時には、沖縄、奄美諸島、小笠原諸島の主権回復がなされず、日本列島の本土のみの主権回復に過ぎなかつたからである。特に、沖縄では、昭和36年4月28日に沖縄県祖国復帰協議会が那覇市で「第1回屈辱の日祖国復帰県民総決起大会」が開催されたやうに、本土が独立したことと沖縄の原状の認識について著しい温度差があり、そのことが今日の沖縄問題の底流となつてゐるのである。


ここで言ふ「主権」とは、国民主権などといふ国内的な「主権」概念ではなく、対外的な「独立」といふ意味での「主権」概念であるが、果たして、真の意味で「独立」したのかについては重大な疑問があるので、この問題については別の機会に述べることとする。


ともあれ、桑港条約の発効前の昭和27年2月10日にトカラ列島が、同条約発効後の昭和28年12月25日に奄美諸島が、昭和43年6月26日に小笠原諸島が、、そして、昭和47年5月15日に沖縄が、いづれも「本土復帰」したとされるが、この「本土復帰」といふ意味は一体何であるかの法律学的な検討はこれまで全くなされて来なかつた。以下においては、沖縄問題に特化してこの問題について述べることとする。


まづ、その前提として、アメリカが統治下の沖縄で認めた「琉球政府」について考察する必要がある。この「琉球政府」とは、アメリカの定めた「琉球政府章典」による組織であり、これを「沖縄政府」とか「沖縄県政府」と呼称せず、琉球処分以前の国名である「琉球」を使用したのは、分断が長期化すれば、内地の日本と完全分離して琉球共和国として見せかけの独立をさせた上で米軍がここに永久駐留するための琉米安保条約を締結させる含みがあつたからである。分断統治が長期化すればその可能性があつたのである。


しかも、それを促進させる歴史的要素が沖縄にはあつた。敗戦後に、①「琉球独立」、②「地割制復活」を主張した沖縄人連盟(会長・伊波普猷)が朝鮮人連盟及び共産党と提携して暴動を起こしたことが現在に至るまでの沖縄における左翼運動の基軸になつてをり、そのために、「地割制」といふ農奴制に等しかつた琉球王国の悪政を美化して独立運動を唱へ、共産主義的農業の地割制の復活を求めることによつて、内地に対する反感を煽る行為は年々強化され、内地に対する反感を増幅させてゐる。


沖縄人連盟といふのは、現在の支那の対日戦略の嚆矢となつたもので、「地割制復活」を掲げたのは、農民を奴隷として苛斂誅求の収奪をした「琉球王国」を美化して喧伝洗脳する映画(テンペスト)を上映したり、数々の琉球王国関連の歴史書などを出版したりして、支那の属国であつた琉球への幻想にも似たノスタルジアを掻き立てて沖縄の独立運動を嗾すのは、琉球共和国を独立させ、その後は支那に吸収させるといふ「二段階論」による支那の術策なのである。


琉球王国の美化は李氏朝鮮の美化と同じ性質を持つてゐる。独立運動は、過去の歴史的美化から始まる。そして、沖縄独立の叫びは支那の沖縄支配のための一里塚であり、日本の問題は、沖縄にすべて凝縮してゐると言へる。


沖縄にオスプレイを配備することを最も恐れてゐるのは中共である。米海兵隊がオスプレイを配備して戦力を増強し、有事の際に支那の沿岸部に上陸作戦を展開すれば、中共海軍は完全に機能停止し、海洋と大陸間の資源の流入流出は絶たれて人民解放軍が兵站の壊滅によつて崩壊してしまふシナリオを中共は最も恐れてゐるからである。


ともあれ、沖縄に米軍基地が設置されるに至る歴史的経緯について考察すると、それは、昭和20年4月1日に米軍は沖縄本島に上陸したことに始まる。その後、同月5日、チェスター・ミニッツ海軍元帥の「米国海軍軍政府布告第一号」(ミニッツ布告)を公布して読谷村に琉球列島米国軍政府が設立され、同年8月20日、沖縄県庁の代用として沖縄諮詢会が設置された。そして、昭和21年4月24日、沖縄諮詢会が沖縄民政府に移行し、昭和25年12月15日、軍政府を解消し「琉球列島米国民政府」を設立した。昭和27年4月28日、桑港条約と旧安保条約、日米行政協定が発効し、琉球政府が創設されたのである。昭和29年5月1日、MSA(日米相互防衛援助協定)が成立し、昭和32年、民政府最高責任者「民政長官制」から「高等弁務官制」に移行した。昭和36年2月16日から昭和39年7月31日まで、第3代琉球列島高等弁務官を務めたポール・ワイアット・キャラウェイは、本土復帰を望む運動はすべて鎮圧し、昭和38年3月5日には、「沖縄住民による自治は神話に過ぎない。」、「沖縄の自治権を強く欲する住民は、彼ら自身で政治を行ふ能力はない。」と発言して沖縄の反発を招き、いまもなほ沖縄では語り草になつてゐるが、キャラウェイの発言は、紛れもなく当時の沖縄の現実を端的に示したものであつた。

そして、昭和35年、新安保条約、日米地位協定締結され、昭和46年6月17日、沖縄返還協定が締結して、昭和47年5月15日に沖縄が本土に返還されたといふのが沖縄がこれまで歩んできた経緯である。


このやうな経緯の中で、昭和22年9月22日の天皇書翰の位置づけは歴史的に見て誠に重要である。これは、前述したとほり、敗戦直後に結成された沖縄人連盟が、①沖縄独立、②地割制復活を掲げて日本共産党とその主導による朝鮮人連盟と連帯した暴力破壊活動が大々的になされてゐた時代に出されたものであつて、寺崎英成(天皇の顧問)をW・J・シーボルト(GHQ顧問)に遣はされて沖縄施策についての要望をされた以下の内容の書翰である(昭和22年9月22日付、東京在合衆国対日政策顧問からの通信第1293号への同封文章、連合国最高司令官総司令部外交部作成)。

「一、米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を継続するよう希望する。これは米国に役立ち、また日本に保護を与えることになる。    このような処置はソ連(ロシア)の脅威ばかりでなく、占領終了後に右翼および左翼勢力が増大してソ連(ロシア)が日本に内政干渉する根拠に利用できるような「事件」を引き起こすことを恐れている日本国民の間でも、賛同を得るだろうと思っている。

二、沖縄(および必要とされる他の島々)に対する米国の軍事占領は、日本に主権を残したままで上記の租借、二十年ないし五十年、あるいはそれ以上の擬制にもとづくものであると考えている。

三、このような占領方法(日本の潜在主権を残した統治)は、米国が琉球列島に対して永続的野心を持たないことを日本国民に納得させ、またこれにより他の諸国、とくにソ連(ロシア)と中国が同様の権利を要求するのを阻止するだろう。」


この書翰が昭和54年に発見されると、象徴天皇制の下での昭和天皇と政治の関はりを示す文書として大いに物議を醸し、これは、現在も沖縄県公文書館で展示されてゐる。

そして、占領憲法が憲法として有効であるとする左翼やその改正を主張する似非保守らからすれば、昭和天皇は、占領憲法が施行された昭和22年5月3日から約4か月余に、国政に関する権能を有しないとする占領憲法第4条第1項に違反したことは明らかであり、昭和天皇は、「違憲天皇」、「反憲法的天皇」として、論理必然的に指弾しなければならないはずである。占領憲法が憲法として有効であれば、高らかに天皇批判をしなければ憲法尊重擁護義務(占領憲法第99条)に違反する行為を行つた昭和天皇を批判しなければならないのである。ところが、一部の左翼や全部の似非保守どもは、これについて沈黙したまま誤魔化してゐるが、逃げ隠れせずにこれについて明確に自己の見解を示すべきである。これは、左翼と似非保守の全員に対する公開質問であるから、必ず回答されたい。


ところで、これらの問題を全体として憲法学的に考察すると、次のとほりとなる。つまり、内地においてのみ大日本帝国憲法の改正作業を行つたが、沖縄ではこの作業は全くなされてをらず、占領下で初めての帝国議会の衆議院の解散(GHQ解散)は、幣原内閣において昭和20年12月18日になされたが、GHQ指令によつて総選挙は昭和21年4月10まで延期された。ところが、帝国議会の衆議院議員定数468のうち、沖縄県(定数2)では選挙が施行されなかつた。選挙が未施行であるといふことは、沖縄を除く内地だけでの帝国憲法改正手続であつたといふことである。

つまり、内地も沖縄もともに大日本国帝国の版図であり、帝国憲法が施行されてゐたが、帝国憲法の改正手続と称する手続に関しては、内地と沖縄に別れた「分断国家」のうち、内地だけの手続であつた。もちろん、桑港条約の締結と発効も内地だけでなされ、沖縄には無縁のことである。沖縄返還協定によつて沖縄が内地と併合されるまで、占領憲法は内地だけに適用されたもので、沖縄県では適用されてゐなかつたのである。


このことに関して興味深い事実がある。それは、昭和37年10月、当時の旧民社党と友党関係にあつた沖縄社会大衆党の安里積千代委員長が、沖縄社会大衆党臨時大会において次のやうな挨拶を行つて、これに関する問題提起を行つてゐたことである。


「・・・日本は占領から解放されて独立を回復しました。・・・その独立の陰に沖縄県を分離して米国に施政を委ねるという民族の悲劇がかくされております。平和条約は憲法第61条によって国会の承認を受けています。然しその国家には当時(今もそうでありますが)沖縄は參加しておりません。憲法第95条には一つの地方公共団体のみに適用される特別法はその地方公共団体の住民の投票において過半数の同意を得なければ国会はこれを制定することはできないと規定しております。勿論条約の承認ということは多少意味は違いますけれども日本の法律の下から沖縄を除くということは沖縄のみに適用される特別法を制定する以上に住民にとっては重大なことであります。このような拘束力をもつ条約の承認に当たって国会は沖縄県民に諮らず、その意志に反し、沖縄代表も參加しない国会において議決されたということは当時の事情は諒とするに致しましてもその非は争えないのでありまして政治的責任を感ずべきであります。加うるに重要な国会法から沖縄県を除いております。民主国家の国民としてもつ参政権を規定する国会法や公職選挙法から沖縄の定員を除き選挙法の別表から沖縄を削除しているのがその好例であります。」


それゆゑ、沖縄返還によつて沖縄県に占領憲法が施行されたとされるが、その手続は全くなされてをらず、沖縄県では、占領憲法は未施行であるから、未施行の間は、当然に帝国憲法が現存してゐたことになる。このことは、占領憲法が憲法であるとする見解であつても認めざるを得ないのである。


このやうな分断国家の合併についての法論理をさらに補強して理解するためには、『國體護持総論』第四章の「第二節 分斷國家の憲法論」の(背理法による證明)を参考にされたい。


沖縄返還協定は、内地政府(日本)とアメリカとの条約でなされたのであつて、このことと分断国家同士(内地と沖縄)が合併関係を形成することとは異なる。内地と沖縄との合併条約が必要となるのであるが、内地と沖縄の合併条約(内沖合併条約)は存在してゐない。沖縄の独自性(独立性ではない)を主張するのであれば、内地と対等に合併するのだといふ襟度がなければならない。内地だけで決めた占領憲法や桑港条約に沖縄が盲従し、内地に隷属することでよいのか。内地に隷従すると思つてゐるから、その悔しさから「屈辱の日」と思ふのである。沖縄県民は、このやうな矜持を持つて自覚すべきである。


占領統治下の沖縄における政府機関については、昭和20年8月20日に、大日本帝国下の沖縄県庁の代用として設置された沖縄諮詢会がある。そして、これが昭和21年4月24日に沖縄民政府、昭和27年4月1日に琉球政府へと名称と組織を変更させ、昭和47年5月15日に本土復帰するまで存続したが、この政府機関の国法学的な性質は、天皇の統治権が停止された状態の大日本帝国の政府機関であつたのである。


そもそも、内地とGHQとの講和条約(占領憲法、桑港条約)がそのまま沖縄に適用されることはない。沖縄は、占領憲法の制定手続も、内地に適用される占領憲法を沖縄にも適用させるといふ沖縄議会(沖縄での帝国議会の分会)の議決を踏まへた手続もとられてゐないために、占領憲法が沖縄に適用されることはない。占領憲法のない帝国憲法だけが純然と適用されてゐるのである。


占領憲法は憲法として無効であるが、帝国憲法第76条第1項の無効規範の転換規定により、第13条の天皇の講和大権に基づく講和条約の限度で有効であると判断できる。つまり、帝国憲法は現存してをり、その下に占領憲法(東京条約)が存在することになるので、前記の天皇書翰による昭和天皇の行為は、まさしく現存する帝国憲法第13条の外交大権に基づく行為として当然に合憲となる。この論理によつてのみ、左翼と似非保守による違憲天皇との不敬不遜な主張を断固として完全に粉砕することができるのである。


これこそが、大田実海軍中将の「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」に応へたことになるものと確信するものである。

平成27年4月20日記す 憲法学会会員、弁護士 南出喜久治

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