自立再生政策提言

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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第四回 軍隊と警察

うなはらに すめのいはふね くだけちり のちをゆだねた ひとなわすれそ
(海原に皇軍の磐船砕け散り後世を委ねた人な忘れそ)

昭和8年6月17日に、大阪市でゴーストップ事件といふ事件が起こりました。これは、軍服姿の陸軍一等兵が交差点で信号無視して横断したことに対して、そこに居た警察官が信号無視を指摘すると、軍人は警察官の指図を受けないなどとして悶着を起こし、これが陸軍と内務省との対立にまで発展した事件です。結果においては、お互ひのメンツを立てた形で調停が成立しましたが、少なくとも平時においては、軍人といへども軍務以外のことについては交通整理をする警察官の指示に従ふのは当然です。
 この事件は、軍隊と警察、つまり、国家権力における軍事力と警察力の違ひとその権限分掌などについて問題を提起するものでしたが、それはあまり意識されないまま興味本位の話として語られるだけになつてしまひました。


ところで、我が国では、戦前においては軍隊と警察の区別はできてゐましたが、ポツダム宣言を受諾して武装解除され、占領憲法までが制定され、武装解除(戦力不保持)と交戦権の否認に至つたために、もし、この占領憲法が憲法として有効であるとすれば、軍隊は存在せず、勿論、自衛隊は「軍隊」ではなく「武装をした警察隊」といふ性質になつてしまふのです。
 中共などには、「武装警察隊」といふヌエのやうな組織がありますが、中共は法治国家ではありませんので、この実態と権限は「軍隊」ですが、法治国家である我が国の「武装警察隊」である自衛隊は、あくまでも「警察隊」なのです。


自衛隊は、自衛隊法第89条は、治安出動時の権限に関して、警察官職務執行法第7条に定める「武器の使用制限」の規定を準用してゐます。警察官職務執行法第7条には、「警察官は、犯人の逮捕若しくは逃走の防止、自己若しくは他人に対する防護又は公務執行に対する抵抗の抑止のため必要であると認める相当な理由のある場合においては、その事態に応じ合理的に必要と判断される限度において、武器を使用することができる。但し、刑法 (明治四十年法律第四十五号)第三十六条 (正当防衛)若しくは同法第三十七条 (緊急避難)に該当する場合又は左の各号の一に該当する場合を除いては、人に危害を与えてはならない。」とあり、自衛隊は、まさに警察官の武器使用の場合と同様に、積極攻撃はできないのです。


これは当然のことで、昭和25年7月8日のマッカーサー指令によつて、警察予備隊が創設され、それが名称を変へて現在の自衛隊となつたのですから、自衛隊はあくまでもその法的性質は警察隊だといふことなのです。


ところで、一般には、法治国家における軍隊と警察とは決定的に違ふ点があります。それは、まづ、権限の範囲の決め方が正反対であることです。


つまり、

 軍隊はネガティブ・リスト、
 警察はポジティブ・リスト、

といふ方式によつて権限の範囲が決定します。、
 ネガティブ・リストとは、「原則としてすべて容認し、例外として禁止する事項を定める方式」ですから、例外的に軍隊として行つてはならない事項を定めて規制するのです。
 これに対し、ポジティブ・リストとは、「原則としてすべて禁止し、例外として許容する事項を定める方式」ですから、警察として行ふことができる事項とその行使態様を網羅的に明確に列挙する方式です。、
 たとへば、自動車の運転は原則として禁止されてゐます。しかし、運転免許を取得したものは例外的に自動車の運転が許可されるといふ法制度になつてゐます。ところが、殆どの人が運転免許を持つてゐる現状では、原則と例外が逆転してゐるやうに感じますが、法制度においては、原則禁止・例外許容です。これを一般的禁止の解除といふ言葉で説明しますが、これもポジティブ・リスト方式の一例です。

このやうに、軍隊と警察とはその権限規制の原理を異にしてゐるのです。
 そして、軍隊が軍隊であることの所以は、このネガティブ・リストによつて規律される、主として対外的に権限を行使する実力組織だからです。逆に言へば、ネガティブ・リストによつて規律されない組織は軍隊ではないとも言へます。国外に派遣される実力組織であつても、ネガティブ・リストによつて規律されないものは、「警察隊」なのです。
 警察の権限は、主として国内秩序の維持のためにあるもので、その行使の濫用を防ぐため、その職務権限として認められてゐる事項以外は認められないとするポジティブ・リストによつて規律されるのは、世界共通の法理といへます。


ところで、前回でも述べましたが、「交戦権」と「自衛権」の区別といふのは、実は、この「軍隊」と「警察」の区別とに対応してゐます。交戦権がなければ、拉致された邦人の救出のため先制攻撃をして敵の枢要部を撃砕することなど、国防上の措置や国家の独立性を維持するために必要な措置をとることができません。
 自衛隊によつて自衛のための具体的な措置をとることができるとしても、それはあくまでも本質は警察力による自衛権の行使であり、軍事力による自衛権の行使はできないのです。軍事力の行使は、本質的にはまさに交戦権の行使だからです。


先ほど述べたとほり、自衛隊の武器使用制限が警察官の場合と同様であることから、自衛隊は、いはば急迫不正の侵害がある場合の正当防衛的な迎撃しかできません。攻めてきたらそれを押し返すことはできても、戦闘状態になつてゐない遠方の敵の枢要基地を先制的に攻撃したり制圧、撃砕したりすることはできないのです。
 「攻撃は最大の防御」と言はれてゐますが、「攻撃できないのは最悪の防御」とも言へるのです。


ここに、「自衛権だけでは自衛できない。」といふ、自衛権のパラドックスがあります。


つまり、自衛権だけでは、自衛の措置を超えた国防上の措置はとれません。「交戦権」とは「国防」のためのものであり、「自衛権」は「自衛」のためのものですが、占領憲法が憲法なら、第9条で「交戦権」を認めてゐませんので、その意味においてもやはり「自衛隊」は「警察隊」としての行動の限界を超えることはできません。


いま、個別的自衛権と集団的自衛権といふ些末な議論がなされてゐますが、ここで注目してほしいことは、限定的と称して、集団的自衛権が行使できる範囲を、まさに「ポジティブ・リスト」として議論してゐる点です。つまり、自衛隊には交戦権がなく自衛権しかないので、自衛権が行使できる事項の範囲を「ポジティブ・リスト」として定めなければならないのです。軍隊であれば、「ネガティブ・リスト」として国際条約と戦時国際法になどに反しない限り、あらゆる軍事行動が認められるのですが、「ポジティブ・リスト」で議論してゐる姿は、自衛隊は軍隊でないと改めて世界に公表してゐるに等しいものです。


仮に、自衛権行使の範囲と態様を「ポジティブ・リスト」として沢山のメニューを列挙して、これが法令で決まつたとしても、我が国を侵略する国家が、わざわざそのメニューにある攻撃方法で攻撃をしてくると思ひますか?
 軍略的には、そのメニューにある攻撃態様以外の方法で攻めてくるのは当然です。ですから、こんなメニューはイタチごつことなり、殆ど何の役にも立ちません。それを今のバカな政治家どもが、ありえないやうな事例まで持ち出しメニュー作りをし、これについて侃々諤々の些末な議論をしてゐるのは、小田原評定に勝るとも劣らない愚かなことです。


占領憲法第9条の解釈においても、詭弁を弄して、仮に、自衛権が自衛のための交戦権を含むと解釈したとしても、領土回復、邦人救出などの国防上の見地や国家独立の維持の見地によつて認められるべき交戦権は、第9条第2項後段の明文規定で否定されてゐることは誰も否定できません。
 交戦権がないと思つてゐるから、北方領土も竹島も奪還できないのです。もし、交戦権が認められてゐるとの前提ならば、北方領土や竹島の奪還計画を実行できるのですが、そんなことをすれば自衛権の範囲を超えるとして今までできなかつたのです。


自衛権を拡大解釈しても、攻めてきたらこれを迎へ撃つて押しのけるといふ「迎撃戦争」しかできません。ところが、一度敵国に占領されて実効支配が確立した後では、急迫・不正の侵害がある状態ではありませんから、これを奪ひ返すといふ「奪還戦争」は自衛権を根拠としてはできないのです。まさに、自衛の範囲から外れるからです。ですから、一度奪はれた領土の回復はできず、「北方領土状態」や「竹島状態」になつてしまふのです。
 そして、尖閣諸島が中共に奪はれて実効支配を確立されたら、奪還戦争はできず、無法者を相手に気長で絶望的な外交交渉をすることしかできないのです。なぜならば、占領憲法の前文にあるやうに、「諸国民の公正と信義に信頼して我らの安全と生存を保持しようと決意した」からです。


我が国が昭和4年に締結した『戦争抛棄ニ関スル条約』(パリ不戦条約)について、当時の国際法解釈によれば、戦争は、「自衛戦争」と「攻撃戦争」(war of aggression)とに区分され、後者は、一般に、自国と平和状態にある国に向かつて、相手方の挑発的行為を受けてゐないにもかかはらず先制的に武力攻撃を行ふことを意味し、それ以外は全て自衞戦争としてゐたのです。そして、このwar of aggressionを、極東国際軍事裁判において、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の指示によりこれを「侵略戦争」と誤訳したことから、略取、掠奪の意味を含む一般的な「侵略」の概念との混同を生じたことが今日の混乱を招いてゐます。これは攻撃戦争ないしは不意打ち戦争と訳すべきだつたのです。いづれにせよ、自衛戦争か攻撃戦争か、実際に行はれた戦争がいづれの戦争として評価されるのかの判断は、各国に「自己解釈権」が与へられてゐましたので、支那事変を含む大東亜戦争は、まさに開戦詔書にもあるやうに「自存自衛」の戦争だつたのです。


ともあれ、このやうな「戦争」の区分概念は、常に混乱します。攻撃戦争を自衛戦争の範囲内であると自己解釈権によつて拡大することによつて、自衛戦争の概念は広がります。しかし、このやうに自衛戦争の概念を広げて解釈する場合は、その国に「交戦権」が認められてゐることが絶対条件です。交戦権が認められてゐなければ、自衛戦争の概念は最も限定された概念の戦争に限定されます。さうすると、自衛権の一般的な定義である「国家が自己に対する急迫・不正の侵害を排除するためにやむをえず必要な行為を行ふ権利」に基づく戦争といふことになつて、ほとんど正当防衛的な迎撃戦争に限定されることになるのです。


世界的に見れば、警察隊の戦時下の役割は、戦争は軍隊が行ふので、それ以外の自衛措置としての鎮圧(警察力によるテロ対策、スパイの検挙、内乱の鎮圧など)ですが、我が国の自衛隊は、警察隊でありながら、これを超えて自衛戦争まで担はせやうとする異例な法制度になつたゐるのです。


 「国防」=「交戦権」=「軍隊」 =「戦争」=「ネガティブ・リスト」
 「自衛」=「自衛権」=「警察隊」=「鎮圧」=「ポジティブ・リスト」

といふ図式が一般的な世界共通のものなのですが、これを前提とすれば、我が国では、「戦争」について「ポジティブ・リスト」で規定する自衛隊にそれを担はせるといふ異常さが一目瞭然となつてゐることが直ぐに理解できると思ひます。


話は飛躍しますが、我が国の殆どの仏教教団は、「今より僧侶の肉食妻帯蓄髪等は勝手たるべきこと(自今僧侶肉食妻帯蓄髪等可為す勝手事)」といふ明治5年4月25日の太政官布告が出されたことを口実として、古来の仏教的戒律を捨て去つたので、シャカが率ゐたインド伝来の仏教教団ではなくなつてゐます。ですから、古来の戒律を厳格に守つてゐる上座部仏教のタイなどでは、日本の僧侶といふのはおぞましき破戒坊主として、そもそも僧侶とは認めてゐません。ですから、正式な僧侶の地位にある者としては取り扱はれず、国王には拝謁することができません。いはば、俗人が僧侶のコスプレをしてゐるだけと見てゐるのです。


つまり、中身は俗人、外見は僧侶といふ姿なのです。


これと同じやうに、自衛隊は、占領憲法が憲法として有効とする限り、国際的には軍隊として認められたいとしてゐますが、少なくとも国内的には警察隊といふヌエのやうな中途半端な存在のままです。しかし、帝国憲法が現存してゐると認識すれば、瞬時にして自衛隊は皇軍になります。そして、ネガティブ・リストを遵守した軍事行動が可能となるのです。ですから、真正護憲論と自立再生論は、戦後のすべての矛盾を一掃する「万能理論」なのです。いつになつたら実用化して、一体何人の人を助けることができるか全く不明な「万能細胞」よりも、我が祖国と民族を救ふことのできる格段に優れた理論として、国家への貢献と国家の再生、さらに世界の再生が可能となるものです。  ところが、この真正護憲論によらず、占領憲法を憲法として有効だといまだに信じてゐると、自衛隊は、先ほどの僧侶のコスプレと同じやうに見られてしまふだけです。


つまり、中身は警察官、外見は軍人といふ姿なのです。


こんなことでよいのでせうか?
 保守風味の人たちの中には、このやうな本質論には触れずに、対外的にも国内的にも、私でも驚くやうな過激な発言をする人が数多く居ます。しかし、そんな人に限つて、占領憲法を憲法であるとして認めてゐるのですから、二度びつくりです。ならず者国家であつても屈服し哀願して隷属的平和を求めなさいとする占領憲法を憲法として認める人が、対外的強硬論を唱へるのは、「右翼認知症」といふか「右翼統合失調症」を発症してゐる気の毒な人の姿であると言へます。


しかし、そんな人たちが徘徊してまき散らす言説に騙されることなく、いまの自衛隊員は、国土防衛の士気が高く優秀な能力も持つてゐることに敬意を表してゐます。これは帝国陸海軍将兵の士気に近づきつつあります。先の大戦で戦渦に散つた多くの防人と一体となつて、その精神を受け継いでもらふためにも、自衛官自身がいち早く真正護憲論に目覚めてほしいものです。


自衛官が真の軍人になるためには、単なる兵器オペレータとしての技能を磨くだけでなく、皇軍将兵としての精神的自覚が不可欠です。自衛官としては、占領憲法の改正論を決して主張してはなりません。それは、武官が国政に関与することになりますし、なによりも軍人精神が汚されるからです。占領憲法は英霊を否定してゐるからです。英霊を否定する占領憲法を憲法として認めるといふやうな馬鹿げたことをするのではなく、率先してすべき大事なことがあります。それは、占領憲法の効力論争に挑み、堂々と真正護憲論を主張することです。これをすることは、国政について容喙することにはなりません。自衛官にも学問の自由が保障されてゐるので、堂々と胸を張つて効力論争をし、真正護憲論を主張することができるのです。
 これこそが戦塵に散つた英霊の魂と一体となれる唯一の道なのです。


平成二十六年六月一日記す 南出喜久治


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