自立再生政策提言

トップページ > 自立再生論02目次 > H26.09.01 連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編 「第十回 種内攻撃と秩序」

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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第十回 種内攻撃と秩序

にらみあひ みすゑそらすは まけとなる けもののさがの うごかぬしくみ
(睨み合ひ見据ゑ逸らすは負けとなる獸の本能の動かぬ仕組み)

動物の本能と学習の研究を動物行動学(エソロジー、ethology)と云ひますが、ノーベル賞受賞学者のコンラート・ローレンツが比較行動学の立場から、それを科学的理論として確立させました。「種の内部のものどうしの攻撃」は、理性を善とし、本能を悪とする理性論(近代合理主義)からすれば絶対的に「悪」ですが、比較行動学からすると「種内攻撃は悪ではなく善である」ことを科学的に証明したのです。


種内攻撃とは、たとへば人類同士のやうに、同一の種族の内部で行はれる個体間の有形力の行使を云ひます。これによつて、親子の序列が形成され、家族内秩序や同種内秩序が維持されることになります。そして、家族内秩序や同種内秩序が維持されることにより、異種からの攻撃や同種の別集団からの攻撃に対して、一丸となつて家族と同種集団を守ることができるのです。

つまり、「種の内部のものどうしの攻撃は、・・・明らかに、あらゆる生物の体系と生命を保つ営みの一部」であり、「本能は善」、「種内攻撃は善」であつて、これを悪とする理性論は誤りであることが科学的に証明されたのです(コンラート・ローレンツ著『攻撃 悪の自然誌』みすず書房)。


ここでいふ「善」と「悪」の区別基準は、これまでの道徳や宗教などの価値判断と必ずしも一致するものではありませんし、そのやうな価値基準に基づくものでもありません。人類に備はつた本能に適合する行動が「善」であり、適合しない行動を「悪」とする科学的な区別なのです。


人類にとつて、もし、本能が否定的価値を含むもの(悪)であるとすれば、人類が今日まで生存することはありえなかつたはずです。個体の生命を維持し、種族の生存や維持は本能によつて律せられてゐるのですから、もし、これが欠陥システムであれば人類は適者生存の原則からして既に滅亡してゐたはずです。それゆゑに、本能は善のシステムであり、その本能プログラムに種内攻撃があるのですから、種内攻撃は善であるといふことになります。つまり、善悪とは「本能適合性」の有無で決するのであり、宗教的な尺度で決められるものではないのです。


ところが、理性ばかりが発達し、本能が劣化してくると、前回の『ジキルとハイド』で述べたやうな悲劇やフランケンシュタインの怪物が生まれてきます。

「狂人とは理性を失った人のことではない。狂人とは理性以外のあらゆる物を失つた人である。」とチェスタートンが言つたとほり、行動をコントロールする本能機能を全く失つて、理性の塊(理性のお化け)になると、人は当然に犯罪を犯します。犯罪は、本能が狂つたために起こるのではなく、本能が低下、劣化して、理性だけで行動することによつて引き起こされる現象なのです。


ところが、多くの人は、その逆であると信じてゐます。これこそが合理主義による洗脳なのです。しかし、現実では、本能が劣化すると、相対的に理性による支配が大きくなり、犯罪が行はれることになるのです。理性とは「損得の計算能力」です。ばれないのなら、こつそりと盗んでみよう、人を殺してその人の持つてゐる物を奪はうとするのは、理性による計算によるものです。本能では、そんな仕組みはありません。動物には、原則として「盗み」がないのです。動物の場合は、生命と身体、そして家族を養ふために異種の動物を獲物として殺したりしますし、腹を空かして生命の危機に出会ふと、同種の動物が得た獲物を横取りしたりもしますが、それは堂々と実力で奪ひ取るのです。隙を見て他が獲得した獲物をこつそりと盗むのは、学習などで智恵をつけた場合に例外的に行はれるだけです。この「智恵」とは、まさに「理性」のことです。力の弱い動物は、その知恵を獲得して生命等を維持しようとしますが、そのことが生命維持のためにその智恵を獲得しようとするのが本能の働きなのです。人に近いとされてゐる猿などは、この知恵といふ理性を持つてゐるのです。


他人を殺してその家からめぼしい財産を奪ひ取るとか、詐欺をして他人の財産を欺し取ると言つたやうなことを手始めとして、高度な智恵を使つて計算して行ふ犯罪は、人以外の動物では到底できません。これは、理性を持つ人間だからできる芸当であり、人間だけしかできない独擅場なのです。


理性は万能で、理性は善であり、本能は悪だと洗脳する合理主義(rationalism)では、「本能の塊」である動物には犯罪がなく、「理性の塊」である人間に犯罪があることの説明ができません。このことだけでも合理主義は誤りであることが明らかなのですが、「理性」とか「合理」といふ言葉に惑はされて、これが正しいと信じ込んでしまつてゐるのです。


理性とか合理主義といふのは、訳語としても的確ではありません。理性を思考(thinking)と置き換へ、あるいは合理主義を計算主義(connectionism)と置き換へた方が本来の意味に近いはずです。


確かに、理性(思考)によつて道徳心を強くし、社会秩序を維持する行動をしようとする試みも理性(思考)の働きですが、それは、さうすることによつて自分の社会的地位と評価を高めることによつて精神的利益を得ることができるといふ計算が働くからです。ですから、理性(思考)は、それ自体が本質的に善でも悪でもありません。思考の結果によつてもたらされたものは、正しいものばかりではないのです。合理主義といふ言葉は、「理に適ふ」といふ響きがあるために、思考の結果がすべて正しいといふやうに「合理主義」の意味が誤解されてゐますが、これは、単に「計算主義」ですから、計算違ひといふ誤りがあることを忘れがちです。しかし、計算した結果による行動が、社会秩序を害する場合は本能に逆らふために悪であり、社会秩序を維持する場合が本能に適合するために善となるだけなのです。


このやうに、本能が善であるのは、本能が秩序維持の方向に働くからであり、社会の秩序維持こそが善といふことです。「人は、不安定で混乱した平等社会よりも、不平等でも安定した秩序社会を求める」と言はれるのは、まさに本能原理によるからです。秩序社会を実現してから、より安定した秩序を形成発展させるため、その社会を公正なものとすることが人間社会の本能原理なのです。ですから、よりよい安定社会の実現といふ手段を目的化して、その目的のためには社会秩序自体を破壊するやうな、目的と手段とを逆転させた「革命」は、人間社会の本能原理に反した合理主義の生み出した「悪」なのです。


このやうに、社会秩序といふのは、本能原理の本質であり、どんな社会にも共通するもので、このことを部分社会理論といふもので説明してみようと思ひます。これは、たとへば、国家といふ全体社会に対して、これを構成する家族や集落、村落などの自然的発生的な部分会社、あるいは、企業体、会社、学校、運動部組織(体育会組織)などの人工的な部分社会があるといふ認識のことです。


国家は、国家の秩序維持のために、警察や軍隊などの実力組織を備へ、国家内外から国家秩序を破壊する者に対しては軍事行動や刑罰等の制裁を加へて国家の秩序維持を実現させる構造になつてゐます。秩序破壊者に対して有形力を行使して再発防止等を図つて秩序の回復と維持をするわけです。これこそ、種内においては種内攻撃が善であり、種害の外敵から同種を防衛することが種族保存といふ善なのであることを証明してゐるのです。


刑罰の種類や態様などについて様々な議論はあつても、刑罰制度を根本的に全否定する見解を誰も主張しないのは、国家といふ社会における種内攻撃が善であることを当然のことと理解してゐるからです。


そして、国家は、対外的には、国家防衛のために、その構成員(国民)の個々の能力を向上させることが、他国からの侵略を防ぐ抑止力となることから、特に、軍隊といふ国家の部分社会の構成員(軍人)の戦闘能力を高めて軍事力の強化をするために、軍人の教育的指導のために有形力を行使することも種族防衛力(国家防衛力)の強化のために認められるものなのです。


これと同様に、国家の雛形である部分社会においても、有形力による秩序維持と組織防衛が必要です。たとへば、学校においても、本来であれば、教師の懲戒権として体罰や教育的指導が有形力を伴ふことは当然です。また、剣道部や柔道部その他の運動部組織(体育会組織)においては、さらに、そのことに加へて、国家における軍隊と同様に、個々の構成員の運動能力を向上させて進歩させ、他の運動部組織に打ち勝つための教育的指導がなされることが必要となります。


そして、そのことは、最小の社会単位である家族においても同様で、次回に詳しく述べるとほり、家族の秩序と能力の向上のために、親が子に対して有形力を伴ふ体罰や教育的指導もまた種内攻撃として認められるといふことです。もし、家族内での体罰や学校内での体罰を禁止するといふのであれば、その雛形である国家においても刑罰は禁止しなければ、二重基準の矛盾に陥ることになります。刑罰を善として認め、体罰を悪として認めないのは、それこそ合理主義に悖る考へなのです。


ところで、国家の刑罰は、当初は、あくまでも有形力の行為といふ種内攻撃しかありませんでした。笞、杖、徒、流、死といふ古代支那の刑罰制度も、ハムラビ法典における「目には目を、歯には歯を」といふ同害報復の刑罰制度も、すべて種内攻撃としての有形力によるものでした。ところが、時代が進むと、財産刑(罰金など)が導入されましたが、これは明らかに本能原理から外れてゐます。貨幣経済によつて刑罰制度が歪められ、財産刑といふ刑罰が追加されたことによつて、種内攻撃による秩序維持機能は薄れることになりました。財貨で支払ふことによつて罰を免れるといふ「理性原理」が導入されて刑罰制度が歪み、このことが社会秩序の乱れを一段と加速することになつたのです。

平成二十六年九月一日記す 南出喜久治


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