自立再生政策提言

トップページ > 自立再生論02目次 > H27.07.01 連載:第三十回 方向貿易理論 その三【続・祭祀の道】編

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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第三十回 方向貿易理論 その三

ぬるまゆに つかりてそなへ わすれける いへのぬかりは くにのひながた
(温ま湯に浸かりて備へ忘れける家の拔かりは 国の雛形)


(承前)


世界には、大小様々な「独立国家」がありますが、それらが独立してゐると言へるためには、どんなことが必要なのでせうか。


その国家が独立したと政治的な宣言し、それが国際的に承認され、独自の統治権が行使されたことは勿論ですが、対外的に独自の外交と交易が行へることが必要です。

つまり、領土(領海、領空を含む)の排他的範囲を確保し、帰属する国民の範囲が確定して、国外からの干渉を受けずに国内における独自の統治が実施され、対外的にも他国に対して自立した関係で外交と交易ができることなのです。


国内だけで、国家に必要なすべての物資等を生産確保できるのであれば、外交は必要としても、交易(貿易)は必要がありません。しかし、外国との貿易が国家の存続にとつて必要不可欠として避けられないものであるときは、その貿易における自主性が確立してゐることが必要となります。


貿易は、国民に行はせず国家が直接に独占的に行ふ場合と、国家の方針に従つて国民が行つてそれを国家が管理統制する場合とがありますが、貿易の収支計算上において、通貨発行権と為替取引に関して国家単位で行はれることが独立国家においては必要です。

もし、国家が全く関与も統制もしない全くの放任状態で自由に国民(民間)の貿易が行はれるとすれば、その貿易を行ふ主体の国民がその国家に帰属してゐるとは言へなくなります。ですから、独立国家であるためには、国家が全体として貿易における一つの経済単位となる意味において経済的独立(経済主権)が確立してゐることが必要となります。そのために、国家の持つ通貨発行権が独立し、国際的に為替取引ができることが前提となるのです。


ところが、現在のやうに、証券その他の金融商品取引や為替取引が、実体経済取引としての貿易取引決済のための為替決済取引とは全く無関係に行はれる金融資本主義による露骨で膨大な取引量の「賭博経済」が蔓延したことによつて、国家の経済主権が危機に瀕してきたのです。


国境を越えて、証券市場や為替市場に外国通貨が流入し、金融資本もまた国境を越えて資源や資本財の売買のために流入して来ますと、経済的独立性(経済主権)が存在することが独立国家である意味が大きく揺らぎます。


世界を駆け巡る金融資本には、国境がありません。ボーダーレスです。世界化、グローバル化といふのは、金融の完全自由化のことで、国境がなくなれば、国家の独立は保てなくなります。


つまり、金融資本は、独立国家の統治権(国家主権)を超えた存在になつてゐます。この金融資本が国家の独立性までも犯す事態になつたのです。

それは、平成21年のギリシア危機において、ソブリン・リスク(sovereign risk)といふ経済用語が使はれるやうになりましたが、このソブリン(sovereign)とは、「国家主権」のことです。つまり、これは国家主権の危機だといふ意味なのです。

これがギリシア、スペイン、ポルトガル、イタリアなどの国家財政を直撃するEUの欧州経済危機として広がり、いまもなほ、この慢性的危機が続いてゐます。今後、これが改善する見込みは全くありません。


このソブリン危機は、金融資本を牛耳る一部の者の集団こそが「世界の主権者」であり、各国は、その主権下で「政治的自治権」を認められた地域であるとする世界組織が明確に出来上がつたことを意味してゐるのですが、多くの人はこのことに気付いてゐません。

ですから、いまでは、「独立国家」と呼ばれてゐる殆どの国家は、政治的独立性だけで、経済的独立性を失つた国家となり、真の独立国家ではなくなつたといふことなのですが、その理解ができてゐないのです。


ところで、経済主体としての国家を考へるとき、完全自給のアウタルキー(自給自足経済)の国家の場合は、貿易による物流や情報の流入がないので、これは、物理学でいふ「孤立系」に似てゐます。そして、その対極にあるのが、自給率ゼロの国家であり、これは「開放系」といふことになります。つまり、完全にグローバル化した状態です。これは、国家滅亡(国家消滅)の一つの形態であり、グローバル化とは、世界均一化といふよりも、世界単一国家化(ワン・ワールド)といふことなのです。


そして、現代の多くの国家は、その中間的な「閉鎖系」といふ形態に似たものといふことができます。つまり、国民も領土も、国際規範も情報も、そして物資もエネルギーも、他国と相互に交換しうるのですが、国民と領土については、国際規範や情報、物質とエネルギーほどには流動的ではないからです。

しかし、閉鎖系といふのは、語感の印象とは異なり、これも開放系の一種であり、それは単なる「開放」の程度の問題であり、孤立系とは全く異なるもので、完全開放に向かふ過渡的なものに過ぎません。


ところで、「経済」の語源は、「経国済民」、「経世済民」です。国を治め民の苦しみを救ふといふ意味であり、本来は「政治」の意味だつたのですが、このことからすれば、政治と経済とは不可分一体のものと捉へても決して不自然ではありません。さういふ観点からすると、独立国とは、政治的自立と経済的自立の双方が備はつてゐる状態のことであると認識するのは当然のことです。


国際社会の中で、政治と経済とは不可分の関係にあり、「独立」について、これまで多くの人の間でなされてきた議論は、政治的自立を中心に、といふよりは、専らこれのみについて語られてきたと思ひます。しかし、真の独立を考へるについては、むしろ、この経済的自立こそが国家の命運を左右することになると自覚すべきです。


なぜなら、家族の場合を例にとれば、すぐに判ります。

家族が独立してゐるといふのは、真つ先に経済的自立、つまり家計が他の家族と独立して成り立つてゐることを意味します。

ある家族が所有する大きな家の離れに、別の家族が一家ごと居候をして生活費のすべてをその家族に面倒を見てもらつてゐる「被保護家族」は、たとへその家族内での役割分担を他人から口出しされずに家族内だけで決められる状態であつたとしても、自立した家族であるとは誰も思ひません。


これと同じやうに「被保護国」についても独立してゐるとは云ひません。政治的な被保護国もあれば、政治的には被保護国ではないとしても、経済的な被保護国もあるのです。


その保護が片面的、一方的な場合であれば、被保護国であると誰でもが当然と思ふでせうが、多くの人は、貿易によつて自給率を下げた程度や、相互に物流交換をしてゐる程度では、経済的自立を失つてゐるとは思つてゐません。

現に、先ほどの家族の例の場合でも、被保護家族がどこからか給料を得て、生活必需品などを購入して生活し、誰にも金錢的援助を受けてゐなければ、離れに居候して住居費相当分(機会費用)の支払を免れて援助してもらつてゐる程度では、その家族は一応は自立してゐると思つてゐるでせう。

確かに、平常なときはさう思ふかも知れませんが、勤め先の会社が倒産して給料が入らなくなつたとき、一次的には借金をして凌ぐことはできても、再就職して元の給料以上のものが入つてこなかつたら、やはり母屋の家族か、政府や誰かの援助を受けることになります。そのときは、やはり家族の自立は奪はれるのです。


このことは、国家も同じであり、平常時は、政治的自立を保つてゐるやうに見えても、なんらかの異変によつて、食料やエネルギーなどの国民生活を維持しうるために必要な物資(基幹物資)が調達できなければ、たちどころに国家存亡の危機に直面します。


しかし、真の独立といふのは、そのやうな局面においても、対処し対応できるものでなければならないのです。それができて初めて独立した国家と評価されるのです。

「備へあれば憂ひなし」といひますが、仮に、基幹物資の大量の備蓄があつたとしても憂ひはあります。異変が長期化すれば、いづれ備蓄のすべてを費消して枯渇してしまふからです。

ですから、この備へをした独立国家となるためには、基幹物資の自給自足体制を確立することしかないのです。このことこそが国防の根幹であり、真に独立した姿なのです。


「第十八回 籾米備蓄」で述べたことは、わが国の主要食糧である米についてのものですが、この考へは、すべての基幹物資の備蓄に共通するものです。その意味で、もう一度これを読み直してほしいのです。熊本城築城の加藤清正もラバウル要塞の今村均大将も、軍隊といふものは国家の雛形であり、「常在戦場」の自己完結組織でなければならないといふ認識があつたといふことです。

自己完結組織といふのは、兵站に頼らない備蓄と生産調達を自ら行ふ組織のことで、いつ、どこで、どのやうな状況に置かれても、自らの力だけで攻撃と防御を行ふ覚悟があり、その実践ができる組織体のことです。


つまり、備蓄ができるといふことは、その物資について自給自足が出来るといふことを意味します。そのために、その他の様々な基幹物資についても自給自足体制へと進むことに国家と国民が総力で取り組む必要があるのです。

自給率の向上は、国家だけに委ねるものではありません。これは、そもそも国民が家族単位で取り組む課題であり使命でもあります。


ところで、このやうな政策転換により、仮に、自給自足体制を確立したとしても、それでも国家の緊急時(戦争、内乱、大災害など)には、物流の混乱などの影響で安定供給の維持ができなくなるといふ憂ひはあります。しかし、その憂ひは、基幹物資の自給率が小さい国家が緊急事態となつた場合と比較して雲泥の差があります。そして、完全自給が確立してゐる場合や自給率が相当に高い場合は、その緊急事態に対応できなくなる可能性も少なくなるのです。なぜならば、内乱はともかく、戦争の場合、自国と比較して相手国の自給率が小さければ小さいほど、自給率の高い国は、自給率の低い相手国よりも戦争遂行能力において優位に立てるからです。食糧安保は防衛力の要です。


勿論、大量破壊兵器の保有の有無によつて、その様相に変化を生じさせることになりますが、それでも食糧安保はやはり戦争抑止力になります。国家の「地力」(高い自給率)が開戦の抑止力と早期停戦講和の推進力となり、戦争遂行能力を決定付けることに変はりはありません。


「不虞に備へざれば、以て師すべからず(不備不虞、不可以師)」(左伝)とか、「国に九年の蓄へなきを不足と曰ふ。六年の蓄へなきを急と曰ふ。三年の蓄へなきを国其の国に非ずと曰ふ。」(礼記)との名言は、このことを教へてくれてゐます。松平定信も、『政語』の中で「三年の蓄へ無きは国に非ず」と説いてゐるのです。


次回は、いよいよ方向貿易理論の核心について述べることにします。

南出喜久治(平成27年7月1日記す)


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