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トップページ > 自立再生論02目次 > H27.09.01 連載:第三十四回 方向貿易理論 その七【続・祭祀の道】編

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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第三十四回 方向貿易理論 その七

ちへももへ かさねあはせの ひひなから よろづのかたち しめしけるかもや
(千重百重重ね合はせの雛形万物の形示しけるかも)


(承前)


方向貿易理論によつて自給自足体制を確立させて行くことが、国家と世界に恒久の安定と平和、そして社会の発展を実現することになるのは、その方向が人類全体に備はつてゐる「本能」に適合してゐるからです。人類が共通して感じてゐる安定社会の既視感(デジャビュ)を具体的に表現したものが自立再生論といふことになります。

そして、この本能の実相を説明するための前提として必要なものが、動的平衡と雛形理論です。


先づ、動的平衡についてですが、これは、生き物の実相に関して大きな示唆を与へたルドルフ・シェーンハイマー(Rudolf Schoenheimer)の功績によります。彼は、昭和12年に、生命科学の世界において偉大な功績を残してゐます。それは、ネズミを使つた実験によつて、生命の個体を構成する脳その他一切の細胞とそのDNAから、これらをさらに構成する分子に至るまで、全て間断なく連続して物質代謝がなされてゐることを発見したのです。生命は、「身体構成成分の動的な状態」にあるとし、それでも平衡を保つてゐるとするのです。まさに「動的平衡(dynamic equilibrium)」です。


唯物論からすれば、人の身体が短期間のうちに食物摂取と呼吸などにより全身の物質代謝が完了して全身の細胞を構成する分子が全て入れ替はれば、物質的には前の個体とは全く別の個体となり、もはや別人格となるはずです。しかし、それでも「人格の同一性」が保たれてゐるのです。このことは唯物論では説明不可能です。人体細胞も一年半程度で全て新しい細胞に再生し、しかも、その細胞の成分も新しい成分で構成されるといふことになると、このシェーンハイマーの発見は、唯物論では生命科学を到底解明できないことが決定した瞬間でもありました。


そして、このことと並んで重要なことは、この極小事象である生命科学における個体の「いのち」から、極大事象である宇宙構造まで、自然界に存在するあらゆる事象には自己相似関係を持つてゐるとするフラクタル構造理論の発見です。フラクタルとは、フランスの数学者ブノワ・マンデルブロが導入した幾何学の概念ですが、いまやコンピュータ・グラフィックスの分野で応用されてゐる理論でもあります。

このフラクタル構造理論(雛形理論)とは、全体の構造がそれと相似した小さな構造の繰り返しでできてゐる自己相似構造であること、たとへば、海岸線や天空の雲、樹木、生体など自然界に存在する一見不規則で複雑な構造は、どんなに微少な部分であつても全体に相似するとするものです。そして、マクロ的な宇宙構造についても、いまやフラクタル構造であることが観察されてをり、また、恒星である太陽を中心に地球などの惑星が公転し、その惑星の周囲を月などの衛星が回転する構造と、原子核の周囲を電子が回転するミクロ的な原子構造とは、極大から極小に至る宇宙組成物質全体が自己相似することが解つてゐます。


このことについては、我が国でも、古来から「雛形」といふものがあり、形代、入れ子の重箱、盆栽、造園などに人や自然の極小化による相似性のある多重構造、入れ子構造を認識してきたのです。そして、『古事記』や『日本書紀』には、この唯心と唯物の世界、形而上学と形而下学とを統合した大宇宙の壮大な雛形構造の原型が示され、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)の二柱の神が天津神の宣らせ給ひた「修理固成」の御神勅を受け、天の浮橋に立つて天の沼矛を指し下ろし、掻き均して引き上げて出来た「オノコロシマ」(淤能碁呂島、オノゴロジマ)とは、「地球」のことです。「オノ」といふのは、ひとりでに、自づと、といふ意味の大和言葉であり、「コロ(ゴロ)」といふのは、物が転がる様から生まれた擬音語です。「シマ」といふのは、島宇宙、星のことであり、いづれも大和言葉であつて、これをつなげた「オノコロシマ」とは、「自ら回転してゐる宇宙」、「自転島」、つまり「地球」なのです。そして、このオノコロシマから始まるその後の記紀による国産みの話は、我が国が世界の雛形であることを意味してゐます。また、地球といふ生命体の創造において、天の御柱を二柱の神が廻る姿は、個体細胞の染色体が二重螺旋構造をしてゐることを暗示し、まさに極大から極小に至るまでの相似形象を示す我が国の伝統である「雛形理論」を示してゐます。このことからすると、記紀には、宇宙創世から地球の誕生、そして、その創世原理としての雛形理論といふ比類なき壮大な宇宙性、世界性、普遍性が示されてゐるとともに、我が国が世界の雛形であるとの特殊性が描かれてゐることになります。


『大学』でいふ「修身斉家治国平天下」といふのも同じです。これらは、森羅万象や社会構造の全てについて、この雛形理論で説明できることを示したもので、人の個体、家族、社会、国家、世界のそれぞれの人類社会構造の解明についても、この理論が当然に當てはまります。

また、同じく社会科学としてその科学的考察を必要とする法律学、憲法学、国法学の分野においても、同じく「科学」である限りは、この雛形理論が適用されることになります。つまり、国家と社会、民族、部族、家族、個々の国民とは、同質性が維持される自己相似の関係にあり、個体の細胞や分子が全く入れ替はつても人格が連続する姿は、皇位が歴代継承され、国民が代々継襲しても、それでも連綿として皇統と國體は同一性、同質性を保つて存続する国家の姿と相似するのです。「国」は「家」の雛形的相似象であることから「国家」といふのであつて、天皇機関説や国家法人説も、人体と国家の相似性に着目した学説でした。


そして、「生体」がその構造と代謝の基本単位である「細胞」で成り立つてゐるのと同様、「国家」もまたその構造と代謝の基本単位である「家族」から成り立つてゐます。家族(細胞)が崩壊して、ばらばらの個人(分子)では国家(生体)は死滅するのであり、「個人主義」から脱却して「家族主義」に回帰しなければ、国家も社会も維持できないのです。


この動的平衡と雛形理論からすると、政治、法律、経済などあらゆる分野の構造においてこれが適用されることにより安定化が図れることになります。それは、生体において、構造と代謝の基本単位が細胞であるのと同様に、経済単位が家族単位の規模まで極小化することが最も安定することを意味してゐます。それゆゑ、極小化の限界は、家族といふことになり、しかも、安定性からすれば、大家族といふことになるでせう。


以上により、方向貿易理論によつて自給自足体制を確立させて行くことによつて、世界全体を、家族、部族、民族、国家、世界へと、それぞれが動的平衡のある重畳的な雛形構造に整序されて、国家と世界に恒久の安定と平和、そして社会の発展を実現させることになるのです。


人に志がなければならないのと同じやうに、国家にも志がなければなりません。国家にとつて、国家の私利私欲に基づく国益よりも、国家の命運を賭した国家としての志がなければなりません。人にとつて志といふのは、生きる目的と希望であり、人に備はつた本性です。他の動物と異なり、これがなければ、人は精神の安定が得られず、生活が安定しません。人は、即物的な生活だけで満足する生き物ではありません。祖先祭祀と自然祭祀などの祭祀生活ないしはその擬似生活としての宗教生活を営むことでなければ、魂の安静は得られないのです。


祖先祭祀の根源とは、親が子を慈しみ、子が親を慕ふ心にあります。我々の素朴で根源的な心には、たとへ死んで「から」(体、幹、柄、殻)を失つても、その「たま」(霊、魂)は生前と同様に子孫を慈しんで守り続けたいとするものです。たとへ自分自身が地獄に落ちようとも、あるいはそれと引き替へてでも、家族が全ふな生活をすることを見守り子孫の健やかなることを願ふ。そして、子孫もこのやうな祖先(おや)の献身的で見返りを望まない心を慕ふのです。死んでも家族と共にある。それが搖るぎない祭祀の原点です。


子孫が憂き目に逢ふのも顧みずに、家族や子孫とは隔絶して、自分だけが天国に召され、極楽・浄土で暮らすことを願ふのは「自利」です。「おや」は、自分さへ救はれればよいとする自利を願ひません。これは「七生報国」の雛形です。一神教的宗教の説く救済思想への違和感はまさにここにあります。「利他」の「他」は、先づは家族です。あへて家族から離れさせ、その絆を希薄にさせる「汎愛」では雛形構造が崩壞します。家族主義といふ「利他」を全ての人がそれぞれの立場で実現すれば、世界に平和が訪れることになるのです。


つまり、祭祀の機能は「人類の融和」です。これに対し、世界宗教といふのは、特定の宗教勢力が「絶対神」を定め、それを「唯一神」とすることによつて、これと異なる「唯一神」を主張する宗教勢力とは、不倶戴天の敵となります。つまり、このやうな宗教の機能は「人類の対立」です。現に、これまで「祭祀戦争」は一度もなく「宗教戦争」は数限りなくあつたたことは厳粛な歴史的事実です。人々の救済のためにあるとする宗教が、まつろはぬ人々を脅し傷付け殺戮します。それゆゑ、世界平和を真に実現するためには、人類は宗教進化論の誤謬に一刻も早く気づいた上で、祭祀から退化・劣化した「宗教」を捨てて始源的で清明なる「祭祀」に回歸することしかありません。つまり、自立再生社会といふ人類の理想に到達するためには、祭祀による祖先と万物に対する感謝をしながら自己の徳目を磨き上げることを各人が人生の目標として実践することであり、そのことが人類共通の志となる必要があります。


そして、これが、家族、社会、国家、そして世界の志となれば、自づと動的平衡を保つた堅固な雛形の経済社会構造が出現します。それが自立再生社会です。

真理と理想に近づく経済社会構造は、決して複雑なものであつてはなりません。単純明快であることが必要です。煩を去つて朴に復ることです。これは、「良い考へは常にシンプル」(クリフォード・ハーパー)とか、「小さいことは美しい(スモール イズ ビューティフル)」(E.F.シューマッハー)、あるいは「単純なことは美しい(シンプル イズ ビューティフル)」といふ言葉で表現してもよいでせう。


複雑で大規模な統制を必要とする経済社会構造では、仮にそれが適正と思はれるものであつたとしても、その理論を理解して管理統制しうる能力を有する者の中から選ばれた特定の者だけが社会と経済を寡頭支配することになります。そして、その大規模な統制構造を管理するについては、必然的にこれに対応する大規模な政治制度を必要とします。さうすると、大きな政府の権限が増大し、生殺与奪の権限を掌握した者の寡頭政治となり、必ず腐敗が生まれます。絶対的権力は絶対的に腐敗します。これは、少数支配の原則から生まれる腐敗です。そして、その少数支配者が故意又は過誤によつて本来の構造と制度の運用を誤れば、全体としての社会と経済の構造が脆くも崩壊します。それゆゑ、大規模な統制構造の社会と経済は、これを支へるための複雑で強力な政治によらなければ維持できないこととなり、その社会構造は脆弱で不安定なものとなります。そのことからすると、複雑な計画経済と硬直化した独裁政治を行つた共産主義国家が崩壊するに至つたのは必然的な現象と云へます。そして、これに勝るとも劣らない複雑で硬直化した現在の国際金融資本主義社会の混迷と、この制度を維持しようと藻掻き苦しむ国際政治がダッチ・ロール的迷走に突入したことからすると、これは構造的崩壊に至る前相であると評価できます。


そのために、社会の理想を実現する志は、一部の特定の者に独占されるものではなく、万民が素朴に継続して抱くものでなければなりません。そして、それが収束して家族、各地域、国家、さらには世界の志として共通するものとなり、それが自立再生を実現する志に収斂されます。国家単位で捉へると、方向貿易理論が必然的な帰結となり、これによつて「自立再生論」を実現するといふ国家の志が形成されることになるのです。

南出喜久治(平成27年9月1日記す)


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