自立再生政策提言

トップページ > 自立再生論02目次 > H29.12.15 第八十九回 理性の限界

各種論文

前の論文へ | 目 次 | 次の論文へ

連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第八十九回 理性の限界

さかしらに おのがかなめと おごれども かげにおびえて とりみだすぬし
(賢しらに己が要と奢れども影に脅えて取り乱す主)

理性は、「自然の光」であるとしたデカルトは、理性万能の合理主義(Rationalism)を貫き、世界は、啓蒙主義といふ傲慢さで覆はれたのである。


光(理性)のみを尊重し、影(本能、霊性)を否定したので、いはば、向日葵の花だけを見つめてきた。弁護士のバッチが向日葵であるのも、法律が合理主義の典型であることを物語つてゐる。


しかし、光を求める向日葵の花を支へるのは、見えない土の中にある根である。根が強くなければ花を支へられない。根は、光の反対側の影の方向に延びて花を支へてゐるのである。


ところが、この理性万能主義が行き詰まり、理性に限界があることについては、昭和初期に唱へられた次の二つの科学的理論によつて証明された。


それは、昭和2年(1927+660)にハイゼンベルグが提唱することで始まる「不確定性原理」と、昭和6年(1931+660)にゲーデルが証明した「不完全性定理」である。


前者の「不確定性原理」は、量子力学において、光が粒子の性質があるのと同時に波動の性質があるといふ、相矛盾する二つの性質を統一的に理解するためには、ある粒子の位置とその方向の運動量が同時にゼロとなることはないといふ不確定性を認めざるを得ないといふことであり、後者は、ある体系内で定式化できるあらゆる命題の真偽がその体系内ですべて決定できないといふことである。


平易に言へば、光が粒子ならば、波動のやうな回折や干渉が起こらない。波であれば、その伝達物質があるとして、これを仮説的にエーテルと名付けたが、これがその後観測によつて否定されたとされたものの、当時の測定技術の精度からして完全に証明されたとは言へない。しかも、現在ではダークマターといふ質量だけを持ち目に見えない物質があるとされてゐるのである。

これは、一切の「もの」が全く存在しないといふ完全な「真空」の空間といふものがあり得ないことを意味する。「空」とか「虚空」といふものは、「無」ではなく、色即是空、空即是色である。「何事おはしますをば知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」(西行)といふ世界なのである。


つまり、目に見えないものが存在することを認識できたといふことである。不思議な話である。目に見えないことの世界を「オカルト」といふので、この科学的証明によつて、オカルトを否定できないことになつたといふことである。オカルトといふと、負のイメージがあるが、これに負のイメージとしてレッテル貼りがされてゐるのは、理性万能主義の仕業によるものである。オカルトの世界が存在するにもかかはらず、これを認識することに限界があるといふことは、理性(光)が万能であるといふ前提が崩れたことを意味するのである。


そして、後者の「不完全性定理」といふのは、簡単に言へば、自画自賛してもそれが真実であるとは言へないといふことである。例へば、ユークリッド幾何学が正しいか否かはユークリッド幾何学によつて証明することはできないといふことである。だから、非ユークリッド幾何学も成立するのである。


前者は「認識の限界」、後者は「論理の限界」が存在することを証明したといふことになつたのである。


我が国でも、合理主義の限界として、共産主義、個人主義、民主主義、自由主義の行き過ぎからくる矛盾を指摘した『國體の本義』を文部省が昭和12年に刊行したのも、これらの科学的証明を踏まへてのことであつた。


ところが、大東亜戦争の敗戦後におけるGHQの占領政策は、思想的には合理主義の復活と絶賛であつた。そのために、合理主義批判の『國體の本義』は否定され、オカルトは原則として否定されることになつた。神道のみを否定し、オカルトの典型であるキリスト教、仏教その他の既存のオカルト教団は否定されなかつた。


そして、その後は、光の部分の、しかも、些末な現象の相違だけを議論され、見えない部分、影の部分といふか、国家と世界の大計や人の精神世界や祭祀の必要性を主張するものは否定されることになつた。


チェスタートンは、狂人とは理性以外のすべてを失つた者であるとしたが、理性の怪物となつた有象無象の者が氾濫し、いろんな理屈を並べ立ててゐる。

そして、やはり合理主義の極地である占領憲法も、理屈の世界において壁にぶち当たり矛盾が増幅してきた。


まづ、「認識の限界」について言へば、たとへば、不確定性原理からすると、紙に書かれた占領憲法で認識できる規範以外にも、紙に書かれてゐない、目に見えない規範として、占領憲法と同等の、あるいはその上位のものが存在しうるといふことである。これは、自然法といふ目に見えないオカルト規範のことである。


そして、これを占領憲法第9条の解釈において主張するのである。つまり、「自然人には、自然権として正当防衛権がある。それゆゑ、国家にも自然権として自衛権が認められるので、占領憲法第9条は自衛権を否定するものではない。」といふものである。


しかし、これは形式論理としては正しいとしても、合成の誤謬(fallacy of composition)に陥つてゐる。合成の誤謬とは、個人(部分)にとつては真実であることは、集団(全体)にとつても真実であると誤つて認識することを言ふが、これを占領憲法第9条の解釈において、こんな屁理屈を公然と主張しなければならなくなつた。これにより余計に矛盾が増幅することになるものの、素人に対してはこの程度で騙せると高を括つてゐるのである。


そもそも、自然人が正当防衛を行ふのは、脊髄反射等による本能原理による行為であつて、理性的な計算をして思考過程を経て行はれる行為ではない。これに対し、国家の自衛権の行使といふのは、国防に関する法律制度によつて規律される理性原理による行為であつて、予測による作戦計画と手続、方法等について極めて合理的な判断によつてなされるものである。それゆゑ、本能原理による自然人の場合と理性原理による国家の場合とは本質的な相違がある。そもそも、自然人の構造と判断に至るメカニズムと国家のそれとは全く異なるので、国家を自然人に擬へることは、比喩的にしかできないものなのである。


次に、「論理の限界」については、たとへば、占領憲法第97条第1項で、占領憲法が「最高法規」であると自画自賛してゐる点を指摘することになる。

これは、不完全性定理からして、証明されてゐないことが理性的、論理的に明らかなのに、これを説明せずに、これが正しいとするフェイクが蔓延してゐる。

理性の世界といふのは、損得勘定の「計算」原理が支配してゐるので、この自画自賛の最高法規性は、まさに合理主義の徒花であると言へる。


このやうに、科学技術は進歩しても、人の精神は進化するどころかこれに反比例して退化し、民度がだんだんと低くなることを歎かざるを得ない。この原因は、合理主義にある。合理主義の中心をなす徹底した個人主義にある。

我々は、本能を強化し、影の部分に敬意をはらひ、理性(光)を追求するのであれば、それ以上に本能と霊性(根)を強くして、礼節と道義を守つた祭祀の生活をし続けるのでなければ本当に充実した幸福な境地に至らないのである。


南出喜久治(平成29年12月15日記す)


前の論文へ | 目 次 | 次の論文へ