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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第九十二回 招魂

たましひと こころをあらひ きよむには かがみにうつし みづにてみそげ
(魂と心を洗ひ清むには鏡に映し水にて禊げ)

祭祀は、招魂によつて成立する。


依代(よりしろ)に神霊が降神して祭祀を執り行ひ、それが終はると昇神していただく。そこには常設神殿なるものはない。式年遷宮は、祭祀のたびに依代を設けることの遺風として現在まで続いてゐる。


延喜式によつて、祭祀を基軸とする神道は歪められ、神社神道として常設神殿が設けられて仏教寺院構造との相似的な神社構造となるまでは、これは祭祀(いはひまつり)の営みのあり方であつた。

仏教伝来に対抗して、神道のあり方を模索した結果、仏教寺院を真似て、本堂に比肩した神殿、本尊に比肩した御祭神を固定化することになると、それ以外の神霊は神社では招魂できないことになる。


我々の祭祀には、天皇祭祀(宮中祭祀、神宮祭祀)の雛形として、氏神(うぢがみ)を祀る祖先祭祀、産土神(うぶすながみ)を祀る自然祭祀、守り神を祀る英霊祭祀があるが、それぞれの祭祀のための招魂は、御祭神が固定化された神社では、それを行ふことが難しくなり、これらの神霊の概念と区別すらもだんだんと稀薄になつて今日に至つてゐる。


ここに、祭祀と神社神道の不整合が生まれるに至つた。


ともあれ、招魂とは、天武天皇の御代に、祭祀の「ミタマフリ」として日本書紀に登場したが、これは、「ミタマシヅメ」の鎮魂とは別のことであつた。しかし、仏教や儒教などにより、これらは混在して用ゐられることになつた。フリ(振り)とは、振動のことで力が満ちたものであり、シヅメは、振動の停止で力を抑へることから、ミタマフリは降神、ミタマシヅメは昇神として捉へることもある。


また、支那の文化が移入して、「タマシヒ」の大和言葉に、霊とか魂とか魄が宛てられるやうになつた。

特に、儒学の影響で、「魂魄」について説かれ、魂は、神霊であり、休まずに巡るタマシヒであるのに対し、魄は、肉体を司るもの(ココロ)であり、肉体(中身)を包む輪郭といふ意味として用ゐられることになる。


儒学では、魂は、天に昇る神霊であり、魄は、地を覆ふ鬼に比定された。


ところで、吉田松陰の「留魂録」の冒頭には、「身ハたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留置まし大和魂」といふ辞世の和歌に、「二十一回猛士」の号の署名がある。


この「二十一回」といふのは、「吉田」の字を分解すれば、十、一、口、囗、十となるので、数を合計し合成すると「二十一回」となり、実家の杉家の杉の字を分解しても、十、八、三となつて、これも「二十一」であることから、松陰は、これを好んで使つた。

七生報国として、輪廻転生する前に、その一生一生においても、二十一回の命懸けの行動をするとの激烈なる誓ひの宣言である。


ともあれ、この辞世の和歌は、多くの人の記憶に「留」まつてきたが、これに関するエピソードの一つとして、平成24年10月25日に、石原慎太郎東京都知事が都知事を辞任する声明を出したとき、安倍晋三総裁が、石原の心境を「とどめおかまじ大和魂」と評したことが話題となつた。


安政6年10月27日に吉田松陰は処刑されるが、その前々日の25日から留魂録を書き始め、翌26日夕刻に書き終へたことから、太陰太陽暦と太陽暦とは異なるとしても、10月25日の出来事として、留魂録の冒頭の「身ハたとひ・・・」の辞世の和歌と重ねた長州出身の安倍総裁の言葉には意味深長なものがある。


ところが、これを「まし」を「まじ」と誤つた安倍総裁の無教養さの現れだと批判する人が居るが、本人がどのやうに認識してゐたかは別としても、私はさうは思はない。


ここに、「とどめおかまし」とあるのは、「とどめおかまじ」ではないかとの疑問が、祭祀の視点からこれまでずつと付きまとつてゐた。


儒学に精通した吉田松陰は、「とどめおかまじやまとたましひ」と詠んだとしても不思議ではなく、むしろ、その方が「魂」との整合性があるからである。


確かに、遺著が「留魂録」であるから、「まし」として、留まりたいといふ意味であるとするのが自然ではあるが、果たして、松陰は「武蔵の野辺」に留まりたいとしたのであらうか。


断じてさうではない。もし、さうであれば、それは「魄」であり、ヤマトタマシヒは、大和「魄」といふことになる。


これは、皇国に留まるといふ意味である。そして、魂が昇天して皇国の天空に留まり、祭祀の度に降霊するのである。


私としては、松陰の霊魂が武蔵の野辺に留まつたままであると思ひたくなかつた。飛翔して皇国を駆け巡る「留置まじ大和魂」であつてほしいのである。


ところで、山本五十六は、昭和18年4月18日に、ブーゲンビル島上空で乗機を撃墜され戦死するが、その年の元旦に、トラック島で、
「すめろぎ(天皇)のみたて(御楯)と誓ふ真心は留めおかましいのち死ぬとも」
といふ遺歌を詠んでゐる。

この歌意としては、マゴコロ(魄)であるから、「まし」と理解すればよいのであらう。

ちなみに、この遺歌は、昭和20年2月に作られた軍歌の「必勝歌」の第二節に登場することになる。


このやうに、「まし」と「まじ」とでは一字違ひで大違ひなのである。


そして、このやうな機微から、大和魂の招魂によつて成り立つ祭祀を、素直な感性から見つめ直する契機となれば幸ひである。


南出喜久治(平成30年2月1日記す)


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