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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第百回 少数民族と祭祀

みせものに なりていのちを ながらへる とほよそのたみ おやをわすれり
(見世物になりて命を永らへる遠余所の民元祖(祭祀)を忘れり)


平成19年2月に、東京の国立博物館平成館で開催された「マーオリ 楽園の神々」展が開催されたとき、これをご覧になつた今上陛下がマオリ族の代表と会談されたとされてゐるが、はたしてどのやうなことを陛下はお伝へされたのであらうか。


また、マオリ族に関しては、次のやうなニュースもあつた。平成25年9月に、北海道恵庭市内の温泉施設が、顔に入れ墨(TATOO(タトゥー)のあるニュージーランドの先住民マオリの女性の入浴を断つてゐたといふのである。その女性は、北海道平取町で開かれてゐた先住民族の言語を学ぶ会合に招かれてゐたマオリ語の講師で、マオリの伝統文化の入れ墨を唇とあごに入れてゐたといふのである。温泉施設側は、「利用者に安心して入浴していただくため、入れ墨の入つてゐる方は一様に断つてゐる」といふ画一的、一律的な説得力のない口実で受け入れなかつたのである。


入れ墨の文化は、我が国でも太古の昔から神事として存在してゐたが、現在の価値感と社会的事情などで、これを当然に排除してしまつたことの当否はさておくこととして、我が国とは文化形成において異なるマリオ族に対しても、これと同様に扱ふことに違和感があるのは私だけではない筈である。


ともあれ、いまや少数民族となつた先住民族の運命について考へるとき、その歴史において、スペイン、ポルトガル、イギリス、オランダなどの欧州勢力による大航海時代、否、その実質は、先住民族大虐殺時代といふ世界的大事件があつたことを忘れてはならない。そして、北アメリカにあつては、「明白なる使命」や「明白なる運命」、「明白なる大命」だと理解されてゐるマニフェスト・デスティニー(Manifest Destiny)によつて、アメリカ先住民を虐殺し、土地を詐取して辺鄙へと追ひ遣つた米国の歴史も否定できない。


しかし、このやうな歴史を全く振り返ることなく、平成19年9月13に、「先住民族の権利に関する国際連合宣言」といふ国連決議がなされたが、これは何を意味してゐるのであらうか。


これは、人種、宗教、民族、文化などの差異と多様性を認め、差別主義に反対し平等であることを確認する。世界人権宣言などと同様に、民族と個人は自由であるとする。

つまり、「民族」と「個人」とを同列に認識するのであり、これでは、民族文化を否定する個人の自由を肯定し、結局は民族と個人との分離対立を促すことになる。はたして、これで先住民が保護されるのであらうか。大いに疑問がある。


そして、これに反対したのは4か国である。オーストラリア、カナダ、ニュージーランド、米国。いづれも先住民虐殺の前科者である。米国は先住民族の定義が明確ではないとするが、これは言ひがかりも甚だしいものがある。


それにしても、この宣言は、具体的には一体何を保護しようと言ふのであらうか。

それは、あたかも絶滅危惧種族に対するサファリランド的な保護であり、それ以上のものではない。保護する側も保護される側も、人類の生活とともに育まれて祭祀を復活しようとする意識が全くないのである。


結局のところ、少数民族の特異な芸能を観光資源として活用して、見世物にするだけである。それが保護する側とされる側双方の利権となつてゐるのが悲しい現実である。


民族芸能や文化は祭祀を起源とするのであつて、これを祭祀無視の単なる観光資源にすることは、民族のご先祖を冒涜することであるとの意識が先住民族にはないし、勿論、保護する側にも全くない。


実質的には、世界の先住民族は支配勢力から逃れた隔離生活を余儀なくされ、その活動範囲を制約される。就職等の機会も少ない。いはば生殺し状態であるから、希望を失つて自殺者が多いのも理解出来る。


世界の先住民族とされるのは、その殆どが現在は少数民族である。

大航海時代(大虐殺時代)の植民地化政策によつて滅ぼされたオーストラリアのタスマニア人、それにアボリジニ、ニュージーランドのマオリ族、その他、ハワイ、ニュージーランド、イースター島の三角形地域のポリネシア諸民族のみならず、我が国でも、アイヌ、琉球族を少数民族であるとして保護の対象としてゐる。


しかし、ケルト人、古代ゲルマン人、ゴート族などの祭祀の民がキリスト教とイスラム教の宗教の民に翻弄されて駆逐されてきた歴史こそに光が当てられるべきである。

つまり、これらの世界の歴史は、「祭祀の民」を祭祀否定の「宗教の民」が駆逐してきた歴史として総合的に再認識する必要がある。


祭祀の復活して祭祀の民(真正日本人)とならないのであれば、そもそも先住民族のレゾンデートルはない。祭祀を否定し、その復活を望まず、祭祀を捨てて宗教に走るのであれば、先住民族としての既得権益を最大限利用しながら、すんなりと同化すればよいのである。それが極めて合理的(理性的)な結論なのである。


これまでの民俗学、民族学、人類学(文化人類学、社会人類学)、宗教学、宗教民族学など、様々な研究がなされてきたが、これらはいづれも「祭祀学」へとは到達できなかつた。考古学もまた、祭祀の遺跡しか研究の対象にせず、その遺跡からどのやうな祭祀がなされてきたのかについての関心が深まらない。


我々もまた稲穂とともに天孫降臨された皇統を戴く先住民族なのである。否、世界人類の殆どが先住民族なのである。先住性といふのは相対的な比較によつて決まるだけであり、移住民族も、長年その地に定住すれば、その以後に移住してきた民族よりも先住民族になるのである。


従つて、「先住」に価値があるのではなく、「祭祀」に民族の本質的な価値があることを人類全体が再確認しなければ、本能が退化して滅びの道へと突き進むことになることを自覚しなければならないのである。


南出喜久治(平成30年6月1日記す)


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