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トップページ > 自立再生論02目次 > H31.04.10 第百二十回 本能と理性 その七

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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第百二十回 本能と理性 その七

あまつかみ くにつかみをぞ おこたらず いはひまつるは くにからのみち
(天津神国津神をぞ怠らず祭祀るは国幹の道)


前回(119)においては、次のやうに述べました。


ケルト人は、ヨーロッパ全域に住んでゐました。ドルイドといふ神官が居て祭祀を司りました。ドルイド教といふ宗教ではありません。これは宗教ではなく祭祀の信仰です。男系の血族単位の土地所有(家産制)といふ祭祀の形態であり、土地は個人所有ではありません。霊魂不滅、輪廻転生、祖先崇拝、英雄崇拝、自然崇拝といふ祭祀の民だつたのです。

これは、我が国の場合は勿論のこと、全世界における祭祀生活体系に共通した文化であり、これがまさしく自立再生社会の原型なのですが、これについては、稿を改めて述べることにします。


今回は、このことについて詳しく述べてみたいと思ひます。


まづ、このことについて述べる前に、科学といふものについて考えへます。


科学とは「再現性」です。

いつ、だれが、特定の環境や条件の下で行つたり観察しても、ある仮説を抽象的に証明した上で、その検証として具体的な現象と結果がこれに適合させて、常に同じとなり再現できることになれば、その仮説が科学的に証明されたとするものです。これは論理学では演繹法と言ひます。

また、これ以外の証明方法としては、帰納法といふものがあります。演繹法とは逆に、予めその仮説自体を直接に証明するのではなく、いつ、だれが、特定の環境や条件の下で行つたり観察しても、同じ現象と結果が繰り返されるときは、その仮説の法則性が存在することが証明されたとするものです。

これらは、継続反復する同じ現象と結果が常に再現されることを証明の根拠とすることで共通してゐます。鶏が先か卵が先かといふことの違ひにすぎません。予め仮説を立てるか否かにかかはらず、継続反復する現象と結果に法則性を見出すことが科学なのです。


地球といふ特定の環境下では、太陽が東から登ること、地球が自転し太陽系で公転してゐることなどは継続反復した法則性があるために科学的に証明されたものなのです。


そして、すべての種の生体がこれまで反復継続して個体の誕生と生成などを例外なく繰り返してきたことからしても、生命とその個体の現象の存在は科学として証明されたものとなります。さらに、哺乳類である人間の生体は、その臓器と機能が他の同種と個体と共通し、大脳の思考を経由する理性の働きと、それ以外の生命現象である本能の働きも、いづれも同種の個体においてすべて反復継続してゐる現象があることからして、種と個体に宿る本能と理性の存在と働きの現象もまた科学的に証明されてゐることになります。


孵化した直後に出会つた動くものを自分の親だと認識するのは、親への依存と感謝の本能の働きであり、このインプリンティングとか、刷り込みなどといふ本能による学習が存在することについても、コンラート・ローレンツなどによつて明らかにされた動物行動学によつて明らかになつてゐます。

特に、哺乳類である人類では、授乳する母親とそれを求める乳児との関係は、子の親への依存とお互ひ感謝の原型であり、祖先の命を受け継いできたことの感謝の行動であつて、それが敬神崇祖といふ祭祀のひな形となる本能の働きによるものなのです。


これに対し、ユークリッド幾何学の「公理」といふものは科学の証明がなされてゐません。直線なるものは理性的には想像できても、宇宙の世界には実在しません。面積のない「点」といふものも存在しません。宇宙空間では、最短距離は2点を結ぶ直線とはなりません。これらはすべて大脳思考による理性の産物です。

ですから、非ユークリッド幾何学も論理学として当然に成り立つのです。無限の彼方で平行線は交はるとか、直線は直径が無限大の円の円弧であるといふのも、やはり観念の産物なのです。


では、霊魂の存在とか、霊魂不滅、輪廻転生などについてはどうでせうか。

少なくともこれらは理性からは導けません。しかし、唯物論が崩壊したことから科学的に導かれることになりました。


設計主義的な共産革命理論の基礎となつた唯物論が理論的に崩壞したのは、シェーンハイマーの理論と原子核分裂の発見でした。


まづ、ルドルフ・シェーンハイマー(Rudolf Schoenheimer)ですが、彼は、昭和12年に、生命科学の世界において偉大な功績を残しました。ネズミを使つた実験によつて、生命の個体を構成する脳その他一切の細胞とそのDNAから、これらをさらに構成する分子に至るまで、全て間断なく連続して物質代謝がなされてゐることを発見したのです。生命は、「身体構成成分の動的な状態」にあるとし、それでも平衡を保つてゐるとするのです。まさに「動的平衡(dynamic equilibrium)」です。


唯物論からすれば、人の身体が短期間のうちに食物摂取と呼吸などにより全身の物質代謝が完了して全身の細胞を構成する分子が全て入れ替はれば、物質的には前の個体とは全く別の個体となります。肉体と精神とが不可分一体のものであれば、もはや別人格となり、別の心となる筈です。しかし、それでも「人格の同一性」が保たれてゐるといふことは、肉体と精神とは別の存在であるといふことを意味します。


これは、前の肉体が「死亡」して、新しく入れ替はつた物質による肉体が「再生」するといふ意味に理解できます。個体が生き続けてゐるときでも肉体の入れ替へといふ生死の現象が起こつてゐるといふことです。


そうであれば、個体自体が寿命が来て死亡しても、その精神は存続するといふ霊魂不滅、輪廻転生の原型がここに見出せるのです。


もし、以前の肉体と以後の肉体であつても、物質の成分が同一なのでそれと不可分一体となる精神も同一であるとするならば、世の中のすべての個体、すべての人類は、一人残らず全く物質で出来てゐるので、同じ思考と同じ生活をする筈ですが、決してさうではありません。


そもそも、物質的に計測できない精神とか人格といふものが唯物論では説明できません。人体細胞も一年半程度で全て新しい細胞に再生し、しかも、その細胞の成分も新しい成分で構成されるといふことになると、このシェーンハイマーの発見は、唯物論では生命科学を到底解明できないことが決定した瞬間でもありました。


また、原子核分裂は、原子を「物」の最小単位として捉へてきた唯物論の根底を否定しました。しかも、分裂してさらに微細な「物」に細分化するだけでなく、巨大なエネルギーを放出することが解つたからです。

「馬力」といふ言葉がありますが、馬の頭数とエネルギー(力)の総量とは比例するとされてきたことが、完全に崩壊してしまつたのです。


このやうにして、個体の細胞の物質がすべて入れ替はつても、個体の人格、心、精神には変はらずに連続性があります。物質は刻々と変はるが、人格と心は変はらないといふ物心の二元性が認められることになるのです。


太陽が東から昇り、地球が自転してゐることは、後付けの理屈で法則性を編み出して説明することはできても、何故そのやうになつてゐるのかの説明ができません。長く、例外なく繰り返される事実を帰納法的な証明として受け入れてゐるのと同様に、本能の存在とその働きを受け入れるのは、まさに科学的な立場なのです。


人類の長い歴史における祭祀の姿は、特別の民族だけに存在するものではありまん。すべての民族が祭祀を反復継続してきたのは、人類と祭祀とが不可分一体のものであつたことの帰納的な存在証明なのです。


これまで血縁家族を単位として近親結合し、それらがさらに集まつて部族を形成をしてきたことからすると、生活の基盤となる土地等の所有形態は家族単位(家産制)であることは当然であり、それが祭祀の基盤となつてきたのです。

個人所有といふ現象が出てきたのは、理性万能の思想に溺れた人類が家族制を崩壊させてきた現象の中で生まれてきたもので、人類史からすれば比較的新しい現象にすぎません。


このやうに、霊魂不滅、輪廻転生、祖先崇拝、英雄崇拝、自然崇拝などは、人類の共通した歴史の中で形成されてきたもので、臨死体験、霊能体験、超常体験などによつて補強されることにより人類の特性として長い間育まれてきたのです。


大脳の思考過程を経由しない本能の働きは、自己保続本能から家族保存本能へ、種族保存本能へ、そして、祖国防衛本能へと段階的に昇華して、文化、伝統を育んできました。


ところが、理性で組み立てたられた宗教が、「文明」の主力部隊となつて、祭祀を否定し、破壊してきたのがこれまでの人類史でした。人類を救ふとか、無益な殺生をしてはならないと唱へるキリスト教、イスラム教、ヒンズー教、仏教など宗教勢力によつて他者を殺生してきた歴史なのです。


欧米人や宗教人は、自らを文明人と名乗り、祭祀の民を野蛮人と蔑んで、無法の限りを尽くしてきました。文明の野蛮さは、自らを文明人として、祭祀の民を野蛮人たと区別した独善性に、最大の「野蛮性」があります。


しかし、その文明人もまた、もとは祭祀の民だつたのです。人類は、例外なく祭祀の民なのです。宗教で目がくらみ、祭祀を忘れてしまつたのです。

人類の未来は、宗教を脱皮して祭祀の民として再生できるかにかかつてゐます。

南出喜久治(平成31年4月10日記す)


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