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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第百三十二回 法律家共同体

まなびやで うそでかためし ことわりを をしへつづける はぢをこそしれ
(学舎で嘘で固めし理屈を教へ続ける恥をこそ知れ)


「法律家共同体」といふ言葉がある。


これは、第85回、第86回、そして、前回の第131回でも繰り返し指摘してきたものであるが、今回、改めて述べてみたい。


まづ、「法律家共同体」といふ言葉が明確に登場したのは、平成27年11月29日付け朝日新聞に、「平和主義守るための改憲ありえるか」といふ長谷部恭男と杉田敦の対談において、長谷部が唱へたことによるものであり、再述すると次のとほりである。


それは、

「法律の現実を形作っているのは法律家共同体のコンセンサスです。国民一般が法律の解釈をするわけにはいかないでしょう。国民には法律家共同体のコンセンサスを受け入れるか受け入れないか、二者択一してもらうしかないのです。」

といふものであつた。


言葉としては比較的新しいが、その観念としては、占領憲法が登場したころからのもので、それ相応に古いものである。


占領憲法に関する議論において、護憲派と改憲派との対立しか存在しないやうに世論を誤導して軽薄な議論しかできない最大の原因は、この法律家共同体の存在なのである。


では、この法律家共同体といふものは何者なのか。この観念を解説すると、かういふことになる。


「法律家共同体」とは、八月革命説といふバーチャル憲法解釈による占領憲法の解釈権を独占する「憲法業者」で形成されたギルド集団のことである。

国民には憲法を解釈する権限はないと平然と言ひ切る。つまり、「国民主権」ではなく「法律家共同体主権」を唱へてゐる。

「東京大学法学部」を頂点とした法律家共同体が憲法解釈権を独占してゐるので、国民は黙つて法律家共同体による占領憲法の解釈に従へ!と命じてゐるのである。


占領憲法は憲法として有効であるとし、これに対する異議を一切黙殺し、効力論争を絶対に認めない。異議を唱へる者は司法界などから排斥する。


そして、我が国では、法律家共同体による占領憲法の解釈があらゆる階層に浸透してをり、法律家共同体に黙従し迎合する政治家、官僚、内閣法制局、両議院法制局、法務省、司法試験委員会、司法界、言論人、メディアなどの権力機構である上位層と、この同調圧力により思考停止して受け売りを続ける大衆の下位層との重層的なヒエラルキー構造によつて鞏固な思想統制が完成してゐる。


そもそも「革命」とは、独立国内での自律的な政治変革であつて、他国の完全軍事占領の非独立状態での変革は、他国による他律的な占領政策の実施に過ぎない。非独立状態で革命があつたとするのはフィクションであり、これによつて生まれたとする占領憲法もバーチャルなものである。

従つて、法律家共同体とは「占領憲法真理教」といふ宗教教団の指導部であると擬制することができる。


では、この法律家共同体といふのは、どんな解釈業者(自称・憲法学者)によつて構成され、どのやうな相関図になつてゐるのかについて具体的に見てみよう。


法律家共同体には派閥があつて、いくつかに分かれる。


川の流れをイメージして喩へると解りやすいので、独断で命名するとすれば、法律家共同体は、「本流派」と「並流派」とに大きく別れる。

本流派といふのは、法律家共同体のまさに中心であり、並流派といふのは、本流派と同じ方向に流れるものの、水源も異なり、決して本流には合流できない流れである。


そして、本流派も、さらに「主流派」と「分流派」に別れる。

主流派は本流派の中核であり、分流派とは、主流派から袂を別つた流れであるが、再び主流派には合流することができない流れである。


さらに、「並流派」といふものがあり、これには後で述べるとほり、いくつかの相交はらない流れがあるが、並流派の存在は、法律家共同体を、より鞏固な重層構造にして定着させる役割を果たしてゐるのである。


では、まづは本流派であるが、これは、憲法改正限界説によれば、占領憲法は帝国憲法の限界を超えた改正であることから無効であるとの結論を乗り越えるために宮澤俊義が編み出した「八月革命説」又はその亜流学説であり、占領憲法を憲法として容認する東大法学部の系列である。


亜流といふのは、定着説、追認説、時効説など、いづれにせよ占領憲法を憲法として認める見解である。八月革命説とこの亜流であるこれらの見解は、いづれも「立憲主義」に明らかに反した解釈であることにおいて共通してゐる。


八月革命説といふのは、昭和20年8月(15日)に、天皇主権から国民主権へと主権変動をもたらした革命が起こつたとする虚構の理論である。

同月14日のポツダム宣言受諾から翌9月2日の降伏文書調印、さらに、同月20日のポツダム緊急敕令に至るまで、主権の変動が認められるやうな事実は全くなかつた。

これは、一言で言へば、裏口入学のやうな潜りの詭弁解釈である。


独立を奪はれた隷属下で生まれたものには憲法としての正統性がないため、この事実をそのまま認めれば、占領憲法の解釈を大学で教へることを商売としてゐる教授としての権威が保てなくなる。そこで、無理矢理でも自律的に定められた有効で立派な憲法であると強弁して、自己の解釈的権威を維持しようとする保身の動機によるものであつた。

かくして、敗戦とGHQの占領政策を奇貨として造反した「敗戦利得者」の宮澤一派によつて東大法学部は乗つ取られたのである。


つまり、八月革命はなかつたが、東大法学部のクーデターはあつた。

宮澤が八月革命と称してゐるのは、実は東大法学部内で自分が実権を完全に掌握するためのクーデターに過ぎないものを、あたかも日本の大変革であるかの如く、その言葉を編み出したのである。


政治の世界でもこれと似たことがあつた。自民党最大派閥であつた田中角栄率ゐる田中派から竹下登が造反して経世会を立ち上げ、田中角栄を切り捨てて田中派を乗つ取り、権力にしがみ付いたこととよく似てゐる。


占領軍によるパージを恐れ、帝国大学の教授の地位にしがみ付かうとする保身により変節した宮澤は、師匠である美濃部達吉に造反して、八月革命説による憲法有効説を立ち上げた。美濃部は、枢密院において占領憲法案が採択された際、占領憲法案は、「前記諸目的が達成せられ、且日本国国民の自由に表明せる意思に従ひ平和的傾向を有し且責任ある政府が樹立せらるるに於ては、聯合国の占領軍は、直に日本国より撤収せらるべし。」とあるポツダム宣言第12項における「日本国国民の自由に表明せる意思」を欠いてゐることを理由として、ただ一人反対票を投じたのである。


しかし、宮澤及びその配下の学者は、美濃部から造反して、東京帝国大学法学部の学統として堅持してきた憲法改正限界説を無視して、八月革命説に乗り換へ、占領憲法が憲法として有効であるとした。しかし、占領憲法が憲法として有効であると定着させた直後において、今度は占領憲法については再び憲法改正限界説を唱へて、あたかも憲法改正限界説を戦前戦後を通じて一貫して守つてきたかのやうな詭弁を弄してゐるのである。まさに一発芸(瞬間芸)としての八月革命説である。


そんな本流派の中核に位置するのが、「主流派」である。

これは、宮澤俊義と、その直系門下の系列である芦部信喜、長谷部恭男、石川健治、木村章太などとその下流である。

また、その亜流とされる小林直樹、樋口陽一、高橋和之、佐藤功、高見勝利、清宮四郎、鵜飼信成などやその下流も、これに属する。


次に、本流派ではあるが、主流派に属しない「分流派」がある。

これは、元は主流派であつたが、そこから袂を別ち、再び主流派には合流しないのが分流派であり、その代表的な者としては、井上達夫である。


井上達夫については、第85回(井上達夫の憲法論)でも触れたが、井上の見解は、自称リベラリストの立場から、主流派の欺瞞性を批判し、主流派の解釈は立憲主義に悖るとする。そして、戦力不保持を定めた占領憲法第9条を削除し、新たに戦力統制規範を創設しようとの見解である。

特に、主流派の第9条解釈は、欺瞞に満ちてをり「立憲主義」に悖るとする。

自衛隊と個別的自衛権だけを容認し始めた主流派の第9条解釈は、立憲主義の破壊であり、解釈の変遷(潜りの改憲)を容認することになる。このままであれば、9条を政治的マニフェストに過ぎないとした高柳賢三の見解と区別がつかなくなるとの危機感が底辺に潜んでゐるのであらう。


そして、井上は、自称リベラリストの面目躍如であるかの如く、立憲主義を振りかざして、護憲派と改憲派の双方の立場が欺瞞に満ちたものであることを指摘して痛烈に批判し、憲法を軽んじる欺瞞であると決めつける。確かに、立憲主義を振りかざした井上の法律家共同体の見解に対する批判は、占領憲法が憲法であるとする前提であれば、それなりの説得力がある。


しかし、井上の立憲主義は余りにも底が浅い。占領憲法の立憲主義としては、厳格な憲法解釈をすることによつて主流派を論破できても、占領憲法の出自について立憲主義を語ることができない。露骨な二重基準となるからである。

私がその点を指摘して、井上との面談を求めたところ、第85回(井上達夫の憲法論)で述べたとほり、「南出様 面談には応じられません。理由:諸事繁亡 悪しからず 井上達夫」といふ、誤字のあるFAX文書を送付してきて、簡単に断つてきた。

リベラリストとして立憲主義の本質を議論することを使命としてゐるはずの井上としては、最優先で立憲主義の問題に真摯に取り組む必要があり、それ以外のことは優先順位の低い雑務の類ひである筈である。それを「諸事繁忙」を理由に議論を拒絶するのは、恐れ戦いて逃げたことの証左である。

一切の議論をせず、無視することにおいては、井上は主流派以上である。


次に、「並流派」といふものがあるが、これは、前にも述べたとほり、本流派と同じ方向に並んで流れるものの、本流派とは水源も異なり、しかも、本流派とは決して合流しないものである。


これには、2つある。


まづ、第一に、憲法改正無限解説により占領憲法を憲法として容認する「京都大学法学部」の系列がある。

佐々木惣一と、その直系門下の系列にある大石義雄、小森義峯などとその下流である。


佐々木は、貴族院で占領憲法に対する反対意見を述べたが、これは自己の思想信条と学説との乖離に悩み、GHQの占領下で、誰よりも早く真つ先に憲法改正作業に取り組んだ佐々木の良心の呵責を告白したに過ぎない。そのことは、大石、小森についても同様である。思想信条においては占領憲法を容認ではないが、学説的には、憲法改正無限界説を採り、占領憲法は帝国憲法の改正法として「有効」であるとする見解なのである。


小森は、芦部に対して、占領憲法の効力論争を挑んだが、それは、小森が憲法改正無限界説による解釈の方が八月革命説よりも占領憲法の有効性に関する論理整合性があるとの前提で論争を挑んだことによる。


しかし、天皇の御不例などの場合は摂政が置かれることを定めた帝国憲法第75条は、通常予測しうる国家の緊急時に対応するものであるが、独立を奪はれGHQによる完全軍事占領下の状況は、それ以上の異常な国家緊急時であつて、その場合では憲法改正ができないとするのは当然のことである。憲法改正に限界があるか否かといふ議論は、独立が保たれた場合におけるものであつて、議論の事象を全く異にするからである。


つまり、小森が芦部に挑んだのは、目糞と鼻糞との議論である。しかし、この論争は、芦部がこれに応ずるか否かの態度を保留してゐるうちに死亡したことによつて実現不可能となつてしまつた。


そして、最後に、並流派のもう一つとして、本流派の主流派と分流派などが依拠する憲法優位説に反対して条約優位説の立場から占領憲法を憲法として容認する「早稲田大学法学部」の系列がある。


これには、占領憲法は「講和大権の特殊性」によつて合法的に制定されたとする有倉遼吉の見解と、「問題は憲法じゃない、憲法学者だ!」と叫んで、法律家共同体を批判し、八月革命説を批判する篠田英朗の見解がある。


篠田については、第96回(篠田英朗の憲法論)と前回の第131回(憲法優位説と条約優位説)でも述べたが、八月革命説を痛烈に批判するのであれば、それに代はる占領憲法の正統性を示さなければならないのに、篠田はそれを行はない。

しかし、八月革命説の欺瞞を批判することは、論理の行き着くところとして、占領憲法が憲法としては無効であることに帰着するのであつて、「問題は憲法であり、さらに憲法学者だ!」との結論に至る筈であるが、篠田は未だにこれに気付かない。

篠田は、法律家共同体なるものを批判し、自らはここから排除されこれに属してゐないかの如く主張するが、占領憲法を憲法であると容認することにかけては主流派以上に熱心である。篠田は、紛れもなく法律家共同体の一員なのである。


ところで、占領憲法が憲法として無効であることについては、これまで述べてきたが、「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」(ヘーグ條約)の条約付属書「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則』第43条に違反するとの主張だけでは、占領憲法の無効を確定的に根拠づけることができないのに、この陳腐な無効論に未だに拘る人が多い。これでは、条約優位説に陥りかねない。あくまでも、憲法優位説の立場から、帝国憲法第73条と第75条に違反するから占領憲法は帝国憲法の改正法としては無効なのであり、第76条第1項により講和条約の限度で有効である評価されるのである。このやうな一貫した論理整合性のある真正護憲論に対して、これまで誰も具体的に反論した者は居ない。


渡部昇一が『渡部昇一「日本の歴史」第7巻 戦後編「戦後」混迷の時代から』(ワック 平成27年7月27日発行)の中で、

「では、護憲学者が主張する日本国憲法の正統性についてはどう考えればよいか。憲法学者のなかでおそらく唯一、大学を出ていない南出喜久治弁護士の意見が一番、筋が通っていると思う。」(p131)

と評価したとほり、学術的見解の命は、その論理整合性にある。大学同士のセクト争ひをして、これを疎かにすることは憲法学、国法学の自殺行為である。


ところが、八月革命説とその亜流による見解によつて固められた法律家共同体の見解には、何ら論理整合性がない。これは戦後の新興宗教に等しく、不幸なことに、この新興宗教である占領憲法真理教が我が国を席巻して久しい。しかし、占領憲法を憲法であるとする思想の呪縛から解き放たれなければ、我が国は、物心共に真の自存自衛は実現できないのである。


このことは、李栄薫(イヨンフン)や李宇衍(イウヨン)らが「反日種族主義」といふ韓国に席巻してゐる思想に対して批判の狼煙を上げたが、この「反日種族主義」の思想の生ひ立ちとその執拗な鞏固さにおいて全く同じなのである。

根拠がなく史実に反して虚構された反日種族主義の嘘が暴かれつつあるのと同様に、我が国でも、法律家共同体内部の内ゲバによつて占領憲法真理教の説く嘘が暴かれつつある。


語気荒く激しくセクト争ひをしてゐるトリックスターの井上と篠田の存在も、自説の虚偽と主流派の虚偽の双方を暴く潰し合ひ期待できる。馬鹿と鋏は使ひ様なのである。

どんどんやれ!と励ましたい。


そして、マッカーサーの手のひらの上で、占領憲法の護憲か改憲かといふ些末なゲーム論争に踊らされて明け暮れる我が国における法律家共同体の呪縛から、そして、韓国においては反日種族主義の呪縛から、日韓両国がいづれも完全に解き放たれることにより、将来における極東の新機軸を構築し、さらにこれから遠望して、祭祀の民の復権による世界新秩序が再構築されることを願つて止まない。


これからの日韓関係において、どちらが先にこれらの呪縛から解き放たれるかを切磋琢磨して競争することこそ日韓両国にとつて今最も望ましいことなのである。

南出喜久治(令和元年10月1日記す)


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