自立再生政策提言

トップページ > 自立再生論02目次 > R02.07.01 第百五十回 北朝鮮拉致事件と占領憲法拉致事件

各種論文

前の論文へ | 目 次 | 次の論文へ

連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第百五十回 北朝鮮拉致事件と占領憲法拉致事件

ひとさらひ ぬすみたかりの まがごとを もとにもどすは もののことわり
(人掠ひ(拉致事件)盗み(領土問題)集り(慰安婦等問題)の禍事を原状に戻すは条理)


北朝鮮の拉致事件について、平成26年5月26日から28日までスウェーデンのストックホルムで開催された日朝政府間協議で合意された「ストックホルム合意」は、それ以後もなんらの進展もないどころか、後退ないしは立ち消え状態になつて今日に至つてゐる。

その原因を喧しく論ふつもりはないが、「ストックホルム」と聞くと、「ストックホルム症候群」といふ言葉をついつい連想してしまふ。


昭和48年8月、ストックホルムのノルマルム広場にあるクレジットバンケン信用金庫において銀行強盗人質立てこもり事件(ノルマルム広場強盗事件)が起こりました。仮釈放の身であつた犯人のオルソンは、9人の人質を取り、現金と服役してゐる仲間の釈放を要求したものの、催涙ガス注入に気付いた犯人は自ら外に出てたところを逮捕されて解決した事件である。

ところが、人質解放後になされた捜査において、人質になつた被害者が、犯人が寝てゐる間に犯人に代はつて警察に銃を向けるなど、人質が犯人に協力して警察に敵対する行動を取つてゐたことが判明し、さらには、解放後も人質が犯人をかばひ、警察に非協力的な証言を行ふといふことが起こり、この奇妙な現象のことを「ストックホルム症候群」と名付けられた。


この言葉が我が国において広く周知されたのは、昭和54年1月26日に当時の三菱銀行北畠支店に猟銃を持つた梅川昭美が、客と行員30人以上を人質にした銀行強盗事件で、生中継までされ、結果的には、銀行員と警察官を2人ずつ殺害した後、2日後の同月28日に突入した大阪府警察本部警備部第二機動隊零中隊に射殺されたことで一応の決着を見た事件においてである。


これは、銀行内部で起こつた奇妙な様相と相まつて、猟奇殺人事件として興味本位に報道されたものの、この事件においても、「ストックホルム症候群」の現象が生じてゐたことが詳しく語られた。


これは、犯人を恐れる余り、犯人に絶対服従して保身することに過剰適応し、あるいは、防衛機制(適応機制)により精神的安定を無意識に求めた結果、心理的に屈折して犯人に対する共感性を生み、犯人に迎合、協力、加担する積極的行動を生むといふ現象である。共感能力が強い人であればあるほどその傾向が高くなる。


思ふに、北朝鮮との協議がストックホルムの地を選んで行はれたかについて定かではないが、北朝鮮の隠されたメッセージとして、拉致被害者のうち、現在生存して居る者は全て、ストックホルム症候群によつて北朝鮮の国策を積極的に担つてゐることを暗示させてゐるのではないか。そのことからして、北朝鮮が拉致問題は解決済みであると宣言することになつたのではないかと想像してしまふのである。


つまり、拉致、監禁、人質などの事件には、常にストックホルム症候群がつきまとふことを前提として考へると、北朝鮮の拉致被害者だけがその例外であると考へることは到底できないことである。


どんな残酷な拉致、監禁、人質の事件であつても、その状態が長く続けば必ずそれが起こりうる。むしろ、北朝鮮の拉致事件のやうな著しく残酷な事件であればあるほど、そして、その後の反日洗脳教育が徹底されることからして、ストックホルム症候群は容易に起こりやすいのである。


北朝鮮は、典型的な独裁国家であり、人命尊重や人権保護を歯牙にもかけず、反逆者を見せしめのために残忍な公開処刑を平然と行ふ無頼漢が統治する無法国家なので、拉致された者が少しでも拉致されたことを批判したり、不服従を貫いたり政権批判をしたりすると、密告されてたちどころに殺される。ましてや、日本が朝鮮半島において残酷な植民地支配を行つたとする徹底的な虚偽内容の反日教育がなされてゐる北朝鮮においては、自国民ですらその思想強制に少しでも疑問を持つ者はすべて反逆者として直ちに収容所に送られ、いづれ処刑されたり早晩餓死させられるのに、極悪非道の日本人の末裔が、それと同じことをすれば、それ以上の過酷な運命が待ち受けてゐるのである。


それゆゑ、拉致被害者で生存して居る人は、すべからく北朝鮮の政策支持者、協力者となり、反日思想に洗脳されて、祖国を呪ふ思想で凝り固まつた北朝鮮の闘士に改造されるのであり、それ以外には、ほとんど生存の道はない。


小泉訪朝において帰国した5人は、北朝鮮の政策等に協力してきたとしても、幸運にも、その任務が限定的で、かつ、軽度のものであつたため、日本に帰国しても北朝鮮の重要な極秘情報が漏洩することがないと判断されたためである。


しかし、帰国できない人は、病死、餓死、または殺されたか、あるいは、生存して居ても極めて重要な極秘任務を担つてゐるため、死んだことにして帰国を拒む人である。

その重要な任務の中には、日本人やその他の外国人の拉致事件を指揮したり協力したり、あるいは、核、ミサイルの開発や密貿易などに貢献することも含まれて居る筈である。


我が国では、敗戦後に多くの将兵が復員してきたが、「岸壁の母」のモデルとなつた端野いせは、ナホトカからの引揚船が入港する度に舞鶴の岸壁に立つて、息子の新二の帰国を待ち望んだ。

いつかは必ず会へると信じ、その期待で生き続けてきたが、端野いせは、ついに新二と再会することなく、昭和56年に81歳でその生涯を閉じた。

しかし、新二は、母親が舞鶴で待つことを知りながら、あへて一切の連絡を絶つたのである。ソ連のシベリア抑留で共産主義の洗脳を受けて、最後は中共の八路軍に従軍し、反日の兵士として任務を全ふしてゐたからである。


また、北朝鮮の拉致事件においても、寺越武志は、拉致されたにもかかはらず、北朝鮮で結婚して家族を作つたこともあつて、拉致されたとは認めずに最終的に帰国することはなかつた。家族を捨てられなかつたからである。


多くの拉致被害者もまた、寺越と同じやうに家族を持つた。そして、生きてゐても、生きてゐると親兄弟に名乗り出られない。それを北朝鮮は許してくれない。中には、会ひたくないと思つてゐる人も居るだらう。

両親や親族が再会と帰国を望むことを訴へれば訴へるほど、自己の立場は北朝鮮国内で追ひ込まれるかもしれない。しかし、被害者家族は、どうしても諦められずに、再会と帰国を最後まで叫ばざるを得ない宿命にある。


拉致被害者の家族が、自分の肉親である拉致被害者の生存と帰国を祈つてはゐても、その被害者の現状は、拉致されたときと同じ心境や環境ではない。親たちは、拉致された肉親が拉致されたときと同じ心境のままで帰国してくれると信じたとしても、それは悲しい妄想に終はる。現実はもつと厳しく悲しいことになる不安を抱へながら、それを考へないやうにしてゐるだけである。


そして、北朝鮮の拉致事件がいかに残酷であるかは、拉致被害者家族は、このことについて沈黙し、思考停止、思考凍結しなければならないことである。北朝鮮の拉致事件の悲劇は、拉致されたことよりも、拉致被害者にとつて拉致の事実が風化し、消え去つてしまつたことが最大の悲劇なのである。この可能性があることを誰も公言できない。禁句なのである。その可能性があることを話すこと自体がタブー視される。これこそが拉致事件の残酷さの本質なのである。


このことは、占領憲法についても言へる。


チャップリンの映画に、『ライムライト』といふ作品がある。ここでは、舞台芸として、蚤がゐないのに、あたかも居るやうに見せる「蚤の曲芸(サーカス)」といふ出し物が登場する。

落ちぶれた喜劇役者(お笑ひ芸人)の老人のカルベロと、若いバレリーナのテレーズの悲恋物語であるが、カルベロの持ち芸として、「フィリスとヘンリーのノミの曲芸」といふ出し物が出てくる。一人芝居で、両腕の甲に交互にノミが跳ねるやうに見せかけるノミの曲芸である。


ノミのサーカスの発祥はパリとされ、その歴史は古く、ルイ14世も見物したと言はれるが、この映画が作られる4年前の昭和23年に、尾崎一雄が 『虫のいろいろ』の中で、「蚤の曲芸」の話を描いた。


これは、私が『國體護持総論』でも頻繁に引用してきたものであるが、それは次のやうなものである。


「蚤の曲藝という見世物、あの大夫の仕込み方を、昔何かで讀んだことがある。蚤をつかまえて、小さな丸い硝子玉に入れる。彼は得意の脚で跳ね回る。だが、周圍は鐵壁だ。散々跳ねた末、若しかしたら跳ねるということは間違っていたのじゃないかと思いつく。試しにまた一つ跳ねて見る。やっぱり駄目だ、彼は諦めておとなしくなる。すると、仕込手である人間が、外から彼を脅かす。本能的に彼は跳ねる。駄目だ、逃げられない。人間がまた脅かす、跳ねる、無駄だという蚤の自覺。この繰り返しで、蚤は、どんなことがあっても跳躍をせぬようになるという。そこで初めて藝を習い、舞臺に立たされる。このことを、私は随分無慘な話と思ったので覺えている。持って生まれたものを、手輕に變えてしまう。蚤にしてみれば、意識以前の、したがって疑問以前の行動を、一朝にして、われ誤てり、と痛感しなくてはならぬ、これほど無慘な理不盡さは少なかろう、と思った。」


ライムライトでは、パロディーとして描かれるが、尾崎一雄の語つた「蚤の曲芸」には、凄まじい強制と洗脳がある。


大日本帝国は、臣民もろとも、占領憲法(日本国憲法)に拉致されて今日に至つてゐる。

拉致されて、ストックホルム症候群どころか、完全に洗脳された帝国憲法下の「臣民」のことを、占領憲法下では「国民」と呼んでゐる。つまり、「洗脳臣民」を「国民」といふ言葉に置き換へたのである。


北朝鮮の拉致事件を解決するためには、当然のことながら、原状回復論による被害回復を原則とすることが唱へられてゐる。違法な行為がなされる前の正常な状態に戻すことを原則とする問題解決方法なのである。


原状回復論(restituon)は、たとへば、昭和元年(西暦1926年)5月の常設国際司法裁判所が、ホルジョウ工場事件の判決において、原状回復の原則があることについて、その代替的な金銭賠償との関係で言及したとほり、これは国際法の大原則なのである。


ところが、どういふ訳か、憲法問題においては、原状回復論が唱へられない。占領憲法に拉致されたままで、それを改正しろといふのである。これは、拉致被害者が北朝鮮で拉致のままの状態で、その過酷な待遇を少しだけ改善を求めることができれば拉致事件が全面解決ができると唱へるが如き暴論と同じことである。


しかし、正義は我にある。必ず、北朝鮮拉致事件も占領憲法拉致事件も、原状回復論を高らかに掲げて前進あるのみである。


未来に向けて我が国に明るいライムライトが当たる日は必ず来ると信じたい。

南出喜久治(令和2年7月1日記す)


前の論文へ | 目 次 | 次の論文へ