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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第三十六回 方向貿易理論 その九

こしかたと ゆくすゑのこと しめしける くにからののり まほらまとかな
(来し方と行く末のこと示しける規範國體自立再生かな)


(承前)


 これまで、効用均衡理論、羊羹方式、焼き魚方式、方向貿易理論、雛形理論、本能論などについて順次述べてきましたが、これらはすべて「自立再生論」として統合されるものです。


方向貿易理論の必然的な帰結が自立再生論ですが、これは、「再生経済理論」に基づくものです。この再生経済理論とは、財貨・情報・サービスなどを提供する生活産業構造を、「生産」、「流通」、「消費」、「再生」の四部門に分類し、生産・流通・消費の各部門は、再生部門に奉仕するものと位置づけることから始まります。再生のための生産であり、流通であり、そして消費なのです。


これまでからも、循環型社会の構築を主張する見解は多いのですが、これらは「動脈思考」によるものが殆どです。「生産」を原点として、過剰生産をやめませう、といふ道義的願望はありましたが、過剰生産が過剰消費を引き起こしてゐることや、消費は美徳であるとする極めて不条理な考へに毒されてきたことの反省が足りなかつたのです。生産し、その後に消費された後の廃棄物を再生して再び生産の資材として用ゐるといふ発想に過ぎず、廃棄物が資源として再生されずに廃棄物となるのが「勿体ない」とするだけですが、再生経済理論とは、廃棄物となつて廃棄されてしまふ大量生産の製品を作ること自体が「勿体ない」とするものです。


資本主義の特性は、たとへ、消費(需要)がなくても、利益の獲得のために生産(供給)するところにあり、大量生産が大量消費を牽引するとして、それによつて拡大再生産が始まることになります。つまりは、過剰消費を誘導すれば消費性向には限界がないことから、物があればあるだけを消費するに至るとするのです。


ところが、「再生」には技術的、経済的に限界があります。従つて、自然に再生される物や義務的に再生される物以外の「余剰」の廃棄物が環境等を破壊することから、この消費を「再生」の観点から限界付ける必要があります。つまり、再生経済理論とは、「再生できずに廃棄してしまふ製品を消費してはならない。」といふ消費の抑制原理です。そして、このことから、「消費してはならない製品を生産してはならない。」といふことに到達します。勿論、消費量とその速度については、地球の再生能力の限界点を超えられないので、その限界点である消費総量を総人口で除した値が一人あたりの消費限界量となりますから、消費生活の態様は、その数値を超えてはならないといふ他律的なものとなります。


総人口の問題、すなはち人口問題については個人で解決できる問題ではなく、一人あたりの消費限界量といふ限界点も、このやうに他律的に決定されるとなると、個人が自覚的に取り組めるものにも限界があります。それゆゑ、国家としては、これらを具体的に数値化して、一人あたりの消費限界量といふ限界点を示し、消費量を抑制させること、いはば「消費量の配給制」といふ総量規制を導入する必要があります。人々は、その総量規制の限界の中で、個々の事情により優先順位を定めて消費の種類を選択し、消費の量を調整することになります。


そして、消費については、このやうに消費総量の限界点を算出するのと同様に、再生についても、再生しうる再生総量の限界点を算出し、これらを比較して、いづれか少ない数値を以て「消費の配給量」として決定することになります。


「配給制」などと聞くと、統制経済を連想して自由のない窮屈なものだとの不安や嫌悪感を抱かれるかも知れませんが、社会生活を営むにおいて、規制や公的義務がない人間の世界は存在しません。自由だとか民主だと言つても、自づと権利には限界があるのです。そして、それが、誰のために必要かといふことでその当否を判断すべきです。

戦時下での配給制は、買ひ占めなどによる物資不足から弱者を守るためでした。戦時下でもないのに、共産主義政府による配給は、その政治制度に基づくもので、それは政権維持のためのものでした。


この「消費量の配給」は、消費生活を困窮させるものではなく、人々が公平、公正に豊かな生活を営むための制度です。地球の有限な資源を公平に活用するためのものです。決して、特定人の利益のためのものではありません。

そして、消費限界量の認識については、その計算技術と方法が進歩して定着すれば違和感がなくなります。ゴミの分別収集や、カロリー計算などによる健康管理のやうな習慣として受け入れられるものと同じ感覚になるはずです。


ともあれ、このやうに、消費と再生の限界を認識した上で、これに基づき生産と流通を限界付ける理論が、「静脈思考」ともいふべきこの再生経済理論です。いはば、これは靜脈産業である再生産業を産業構造上の中心産業と位置づけるもので、単なる循環経済理論のやうに、再生産のための生産部門のために廃棄物を資源として考へると云つたやうな、生産といふ動脈産業を中心に産業構造を捉へるものとは全く異なります。廃棄物をそのまま燃焼させて熱源とするやうな単純な循環ではなく、通常は「メビウスの輪」のやうに、廃棄物の再生処理によつて得られる資源を産業の起点に置く「循環無端」の再生循環経済なのです。これは、生体における自己完結型の「代謝」が雛形となつてゐるものです。


ところで、「再生産業」とは、基幹物資その他全ての生活関連物資として生産されたものが流通を経て消費された結果の「産業廃棄物」を再び生産のための資源として最大効率で活用し、完全に無害処理させることを指導理念とした産業部門です。しかも、「再生」を産業全体の基軸と捉へるといふのは、物に対する感謝を以て再生することを制度化することでもあります。さうすれば、「産業廃棄物」といふ用語は、「産業拝帰物」と捉へることになります。物への感謝(拝)を以て再生(帰)するといふ理念です。


「再生」には、産業廃棄物(拝帰物)を直接的に人為的な再生をする場合と、生態的物質循環を経て間接的に自然的な再生をする場合(いはば、土に還る)とがありますが、完璧な再生は、恰も永久運動のやうな産業循環を実現することです。地球の資源は有限ですから、埋蔵燃料やウランなど、一度燃焼消費すれば二度と再生しえないやうな枯渇性資源(再生不能資源)の使用は、その再生が不能であり、あるいは、極めて困難であつたり危険であつたりする点と、廃棄物(拝帰物)の無害処理が困難な点において、再生経済原理には本質的に馴染まないものです。その他の埋蔵鉱物などのうち再生可能資源は、自立再生経済における産業循環に組み入れられることになります。また、再生可能資源(エネルギーを含む)において、最も理想的なものは、「太陽の恵み」と「宇宙の恵み」です。太陽熱、太陽光、水力、風力、波力、潮力(潮汐)、海洋温度差、バイオマス、地熱、超伝導などを利用した発電及びエネルギーの抽出であり、無限に近い再生利用と完全無害処理が可能となるはずです。


現在、世界各国は、連合国主導で埋蔵燃料やウランなどの枯渇性資源(再生不能資源)の利用に関する研究を主力として進めてゐますが、このやうな傾向から脱却して、安全無害の再生可能資源の実用開発に全力を傾け、自立再生理論を実現するための第二次産業革命ともいふべき技術革新を行ふことが、これからの世界の課題と責務です。


世界各国が、自立再生経済の確立に向かつて自助努力をなし、そのための技術と情報を必要とする国に対しては、新たな国際機関を設けて、その技術と情報を提供し合ふといふ共助努力を行ふことが必要となります。そして、大気や海洋などの地球的規模の問題については各国が協力して取り組み、また、緊急事態に備へた協力体制を確立し、南北格差など、国家間の格差のない世界を実現していくことになります。


そして、「貿易をなくすための貿易」といふ方向貿易理論を実施し、再生経済理論によつて消費を限界付け、基幹物資が再生循環によつて閉鎖系かつ循環系としての自給自足体制が完成することになります。そして、技術革新を遂げることにより、その閉鎖循環系の自給自足社会が、より小さないくつもの閉鎖循環系へと細分化され、その閉鎖循環系社会が極小化していくことになるのです。


つまり、これまでの「極大化」、「無限大化」の発展が限界となつたことから、逆に、「極小化」、「無限小化」の方向へ無限大の発展ができる可能性があるといふことです。

しかし、無限大の発展といふのは、GDP的な指標で認識するものではありません。貿易が最終的に終息する方向に進めば、内需こそが経済発展の指標となります。自給自足の経済単位が極小化し、それが家族単位に到達するまでに、勿論、内需が大きくなつて経済は発展しますが、それたけではありません。


仮に、宗教も生活習慣も言語も異なる家族が隣に暮らしてゐたとしても、それぞれが自給自足生活ができてゐれば、喧嘩をしたり対立することはなくなります。なぜなら、これまでの国際紛争や内乱などは、宗教も生活習慣も言語も異なり、しかも、自給自足ができてゐない人たちが混在して社会生活をすることから起こつたことだからです。

異質の家族が隣同士であつても、それぞれ自給自足ができてゐれば、生活を維持するための物資交換は不要となり、専ら文化交流といふ近所付き合ひができることとなり、それぞれの家族の徳性が高まつて、自立再生社会が実現することになるのです。


南出喜久治(平成27年10月1日記す)


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