自立再生政策提言

トップページ > 自立再生論02目次 > H27.10.15 連載:第三十七回 方向貿易理論 その十【続・祭祀の道】編

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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第三十七回 方向貿易理論 その十

ゆひのみち われすすみける ひとのよの あはあはしきを をさむことはり
(結ひ(收束)の道割れ(拡散、発散、分業)進みける人の世の淡々しきを治む理)


(承前)


では、いよいよ、この自立再生論から派生する方向貿易理論と、前に紹介した新保護主義とは、どこが同じでどこが違ふのか、といふことについて最後に説明してみます。


先づ、新保護主義が、明確ではないにせよ、方向貿易理論の方向性を是としてゐる点においては共通してゐると思ひます。そして、グローバル化こそ世界滅亡の道であるとの認識や、輸出入を制限していくなど、その前提となつてゐる自由貿易と国際金融資本に対する認識などについてもほぼ一致してゐます。また、GATT(WTO)の解体など既存の国際組織を解体させる方向は完全に一致してゐます。


しかし、形式的には一致点が多いのですが、新保護主義が「分業体制」を是認してゐる点は、致命的な欠陥があり、総合的に見て、自立再生論とは、似て非なるものであると断言することができます。


その上で、新保護主義が提起した七つの具体的な政策提案(第二十七回 方向貿易理論 その一)について、以下に個別的に分析してみることにします。


先づ、新保護主義の掲げる大企業の解体については、これを強制的に行ふことには絶対に反対します。方向貿易理論に適合しない企業は、その大小を問はず政策転換によつて自然淘汰されていくとするのが自立再生論です。その意味では、新保護主義のやうな権力的に解体させる政策は、方向貿易理論の実践にとつては完全にマイナスになります。

企業が持つ産業を牽引する力に信頼を寄せるべきであり、企業は、政策転換を誰よりも受け入れて、それに適合するやうに自浄努力をして再生できる潜在能力があるからです。ましてや、大企業には一般的にはスケールメリットによる技術とそのノウハウの集積があり、何よりも雇用の確保と拡大がなければ、産業構造の変革は実現できません。大企業の解体政策は、これらを否定して、失業を増やし、技術とノウハウを散逸させて国内経済全体を減速、沈滞化させ、自給自足体制へ移行するために大きな桎梏となつてしまひます。


人は、道(規範)を踏み外すことがあつても、必ずまた道に戻ることも本能による規範意識によるものです。

江戸中期に、石門心学といふ独自の学派を拓いた石田梅岩は、武士に武士道があるのなら、商人にも商人道(商道)があると説きました。まさに雛形理論です。そして、利を求める商人にも人としての義(士道)を守ることを求め、利と義とは両立するとし、その序列を「先義後利」としました。これが我が国の「あきんど」の魂として定着し、今日に至つてゐます。道を外すことを「外道」といひます。秩序と規範の投影である礼がないことを、無礼、非礼、失礼といひます。礼に始まつて礼に終はること、それが「道」と呼ばれるものです。その意味では、「柔道」や「空手道」などがスポーツ種目となつたときに、その武道は死んだのです。

試合終了の礼を済まさないうちから、勝つた勝つたと小躍りしてガッツポーズをする姿は誠に見苦しく、外道の野蛮人に成り下がつてゐます。

これと同じで、儲かつたことを世間に誇示するだけで社会奉仕もしないのは商道から外れてゐるのです。


ですから、このやうな「大企業の解体」の主張は、マルクス主義の亡霊です。企業は悪、大企業は巨悪とする考へに根拠がないことは明らかです。企業(会社)が悪であれば、その相似形である家庭も国家も悪であり、人間自身も悪となります。労働者だけが善といふことはありえませんし、その労働者によるプロレタリアート独裁が善であるとすることも、歴史的に否定されたことです。

ですから、新保護主義には、この共産主義の思想が入り込んでゐると言へます。そして、思想的な根本において、「分業体制」を擁護してゐる点において、自立再生論との決定的な相違がある上に、次のやうな大きな問題があります。


第一に、新保護主義が打倒しようとする現在の国際体制が大東亜戦争後の戦後体制であるとする認識が完全に欠落してゐる点です。

新保護主義を育んだ土壌は、まさに大東亜戦争を「悪」として断罪した欧米思想であり、大東亜戦争による大東亜共栄圏といふ経済ブロックを破滅させるために欧米が構築した経済ブロックによる「保護主義」をそのまま承継したのが「新保護主義」であるといふ思想的系譜が見て取れます。もし、新保護主義が自己の正当性を主張するのであれば、我が国に対し、安政の仮条約によつて、保護主義の極地であつた鎖国主義を放棄させた欧米の誤りに対する歴史的な懺悔から出発しなければならないはずです。しかし、この認識がないといふのは、やはりこの新保守主義なるものは、白人至上主義を一歩も出られない普遍性のない思想といふことなのです。


第二に、新保護主義には、自立再生論のやうな「閉鎖循環系」の思想がありません。自給自足の方向を示すものの、循環型の社會構築の提案が全くない点です。

これは、原則として自由貿易主義を堅持しつつ、それによる弊害を緩和させるために制限を加へるといふ「修正主義(福祉主義)」の単なる亜流であり、政治状況の変化によつて、いつでも原則に回帰してしまふ運命しかありません。


それは、「資源税」といふ考へ方に集約されてゐるのかも知れません。この資源税については具体的な説明がありませんが、おそらく資源の費消に賦課される税制のことだと思ひます。そして、「大企業」を悪とする思想からして、生産活動に課せられることになると推測できます。しかし、これでは、産業構造の劇的な転換を生まない税制に過ぎません。これは、生産者に対する課税であり、消費者に対する課税ではないはずです。さうすると、生産者は、何とかして消費者に消費性向を掻き立てさせるために、技術と抗告宣伝を駆使し、資源税を上乗せしても利潤を確保できる商品(殆どが奢侈な高級品)を制作して消費者に提供することになります。消費者もこれに迎合して買ひあさります。そして、小規模ではあつても、奢侈商品の拡大再生産が循環されるのです。これでは本来の目標には到達できません。さうではなくて、自立再生論に基づき、奢侈品には累進的に大きな税率の資源税を課すとの流通税(消費税)方式とすれば、家計との関係で買ひ控へが起こり、過剰消費が抑制されるはずです。

新保護主義の資源税の構想は、過剰生産だけを悪と見て、過剰消費を悪と見ない考へに支配されてゐます。資源を使用して利益を得る資本家による生産は能動的な悪であり、それを購入する労働者の消費は受動的な善であるとして、資源税の担税主体を生産者とするのは、これは共産主義の亜流です。


しかし、現在の高度分業体制の社会では、生産者は一部であり、消費者は、この生産者を含めた全ての人々となります。さうであれば、過剰生産のみを悪とする教育は、一部の生産者を悪として指弾するだけで、消費者に自らの生活を自戒させる契機を失はせます。これに対して、過剰消費をも悪とする教育は、それ自体が真理であることもありますが、誰もが例外なく消費者であることから、一部の誰かを悪者として指弾することによつて自己満足して傲慢になることはなく、全員が自らの生活を自戒する機会に直面することになつて、教育的効果においても絶大なものがあります。


第三に、新保護主義は、規制の具体的な七つの方策を示すものの、その規制によつて達成する理想社会の具体的なありさまが全く論じられてゐない点です。 単に、「秩序ある資本主義」として規制するとしても、その内容と方向に具体性がありません。これだけの規制を一度にすれば、資本主義は完全に失速し、経済破綻を将来する懸念があります。この七つの方策は、政策論として具体化、序列化されてをらず、到達すべき理想社会の方向も提示されてゐません。手段だけは掲げられるが目的と方向は掲げられてゐないのです。ましてや、金融資本によつて世界が暴風雨にさらされることになつた根幹に、「分業体制」があつたことの認識もなく、これを容認してゐることでは、全く話しにもなりません。


世界的な金融危機や恐慌が起こると、従来までの金融と財政の欠陥システムをそのまま維持しようとする者たちから、「このままであれば保護主義が台頭し、世界は戦争の道へと転落する。」といふ常套文句が語られ、保護主義は戦争誘発の前兆となる代名詞として利用され、この欠陥システムを守らうとするマッチ・ポンプの役割を果たすことになります。確かに、世界が保護主義へ向かつて戦争に至つたといふ歴史的な事実が過去にはあつたものの、それは、保護主義へと向かふ目的が、戦争の「準備」または戦争の「回避」のために自給自足体制にする必要があつたためです。しかし、自立再生論の目的は、「平和」の創造と継続にあるので、この点においても全く異なります。自立再生論とは、その究極が方向貿易理論による政策を推進して「閉鎖循環系の自立再生社会の極小化」を実現するといふ明確かつ具体的な理念とその実践方向ですが、新保護主義にはこれに相当する理念と実践方向がありません。


第四に、これは経済効果において最も重要なことですが、自立再生論による自給自足領域の極小化は、内需拡大を推進することになるとの点です。ところが、新保護主義には全くこのやうな経済学的視点が欠落してゐるのです。

生産至上主義は、徹底した分業体制によつて経済規模を極大化し、ワン・ワールド化することにありました。分業を限りなく細分化することによつて、雇用、消費、内需、外需をいづれも拡大させて「無限大方向への発展」を目指すことでした。しかし、経済世界は地球規模を超えることはできないし、分業にも費用対効果(コスト・パフォーマンス)といふ限界があります。そして、拡散すればするほど生活は確実に不安定になるのです。これに対し、自立再生論は、単位共同社会(まほらまと)の極小化を目指すものですから、自給率向上のための技術革新とその新製品の製造販売などによつて、外需の縮小と内需の拡大とが逆の相関関係となつて内需が拡大します。単位共同社会(まほらまと)の極小化、つまり「無限小方向への発展」が可能となります。これは、各国がそれぞれ自立する方向であり、しかも、各国が内需を拡大し続け経済規模を拡大させる方式です。雇用は、単位共同社会(まほらまと)に吸収され、奢侈な過剰消費はなくなり、適正な消費によつて内需が拡大して経済を安定させます。しかし、新保護主義によると、外需規制だけで、内需拡大の施策がないので、資本主義は失速して経済が停滞してしまふのです。


第五に、自立再生論と異なる点は、「政府の再強化」といふ点です。

この「政府の再強化」といふのは、中央集権の強力な政府を出現させることを意味します。確かに、中央と地方と多層構造による「大きな政府」とか、発展途上にある国々において、富国強兵政策を推進するための「開発独裁」といふ政治形態があります。それゆゑ、この「政府の再強化」とは、これらと類似して、経済生活環境を保護する政策を推進するために「環境独裁」とでもいふべき政治形態を目指してゐることになります。しかし、これは、権力を不用意に肥大化させ、生活のあらゆる面において取り締まりを強化させることになります。しかも、この再強化は、理想社会を実現するための過渡的な手段として、一時期的なものではなく、恒常的な再強化によつてしか理想社会が維持できないことを意味してゐます。永久に強権独裁状態を維持しなければならない状態となり、これは「プロレタリアート独裁」と同じです。

マルクスは、「プロレタリアート独裁」とその頂点に存在する「共産党独裁」といふ政治形態は、革命の完成によつて消滅し、政府自体も消滅するとしましたが、これが虚偽であつたことは誰もが知つてゐることなのです。


第六に、この思想について憂慮すべきは、現在、地球環境が危機的状態にあることから、地球滅亡か環境独裁かの二者択一しかなく、その選択を迫られるとする虚偽の論法を用ゐてゐる点です。

本当にさうであれば、環境独裁しかないが、果たしてさうでせうか。否。断じて否です。自立再生論は、法の支配としての「國體の支配」を説いて主権論を排し、規範國體の法体系を明らかにしたうへ、統治原理においても、政治的効用の均衡を実現するために、利益と権限の公平な分配と腐敗防止を同時に実現しうる「羊羹方式」と「燒き魚方式」とによつて構築された效用均衡理論を採用し、経済においても、基幹物資の自給率を高めるために「貿易をなくするための貿易」といふ方向貿易理論と、再生産業を産業構造の基軸に置いた再生経済理論による政策の実践に集約される体系的理論なのです。その実現のための手段としても、そして、その目的としても「小さな政府」しか必要ではないのです。「小さな政府」になること自体が目的であるといふよりも、自立再生社会が実現すれば、自づと政府は小さくなるといふことです。ただし、この「小さな政府」といふのは、財政規模と財政作用においてその範囲が小さいといふことであり、福祉政策も雇用政策も不要といふ意味です。福祉は、すべて自立再生の単位共同社会(まほらまと)で満たされ、家計を支へる収入を獲得するための雇用は、単位共同社会(まほらまと)での生活によつて不要となり消滅してしまふからです。


そしてこのやうな政治経済社会の構造を構築する方向に、金融、投資、生産、消費などの経済活動を国内閉鎖系に限つて開放し、自由活発化させればよいのです。各国が、それぞれ自給率を高めるために国際的な技術協力を行ひ、貿易、資源活用、生産、消費、公害防止などの経済活動に関して、それが自立再生社会を実現する妨げとなる方向での活動に対しては懲罰的課税を導入し、さらに関税障壁を設けて保護主義的傾向が増せば、その国がたとへ自由貿易を採用してゐたとしても、そのうち「見えざる手」の作用により自づと自立再生論を無理なく選択することになるのです。ですから、巨大な権力による環境独裁は不要であり、むしろ有害なのです。


以上により、方向貿易理論を中心にして述べてきた自立再生論に関する理論体系についての説明を終へることにします。


南出喜久治(平成27年10月15日記す)


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