自立再生政策提言

トップページ > 自立再生論02目次 > H28.03.01 連載:第四十六回 立憲主義と法的安定性 【続・祭祀の道】編

各種論文

前の論文へ | 目 次 | 次の論文へ

連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第四十六回 立憲主義と法的安定性

とつくにの ちぎりをのりと みまがひて まつりごつやみ はらひしたまへ
(外国の契り(条約)を法(憲法)と見紛ひて政治する闇祓ひし給へ)


昨年は、安保法制に関して、「立憲主義」と「法的安定性」といふ言葉が乱れ飛びました。今年もこれが続くみたいですが、どうも、これに関する議論は全く噛み合つてゐないやうです。


サヨクたちは、安保法制は違憲であるとし、その根拠として、立憲主義に違反し、法的安定性を害するとします。

そして、占領憲法の解釈業者に過ぎないサヨク系の似非憲法学者は、占領憲法がこれ以上に解釈改憲されると解釈の限界を超えて辻褄が合はなくなるし、さうなるとこれまで築き上げてきた占領憲法解釈業者としての虚構の権威が壊れてしまふので、その言ひ訳のためにも政治運動に乗り出さざるを得なくなりました。


そうでしたよね? セツくん!


ところが、自称保守(似非保守、保守風味)の人は、全くと言つてよいほど、この議論には加はりません。


さうですよね? ツネヤスくん!


あなたのお師匠様がサヨクの憲法解釈業者だから、その徒弟関係に縛られて何も言へないのか、それともあなた自身が隠れサヨクだからかも知れませんが、このことはアキラくんも、ヨシコちゃんも同じやうに議論に加はらないのですから、お師匠様に追随するヒデツクくんだけの問題ではありません。


いづれにせよ、自称保守(似非保守、保守風味)の人は、安保法制が立憲主義に違反しないとか、法的安定性を害さないことについて積極的な反論を全くしないのです。専ら根拠も示さずに、立憲主義に違反してゐないとか、法的安定性を害してゐないと結論だけを繰り返すだけで、防戦に終始するだけです。

今回の安保法制は集団的自衛権の限定的行使が問題となつたのですから、議論においても、もつと力を合はせて集団的自衛権を行使してサヨクに反論すればよいのに、専守防衛といふか、知らぬ顔の半兵衛を決め込み、ただただ逃げ惑ふのみです。本当にみっともない限りです。


しかし、この議論をすることは我が国にとつて非常に有益なことであることを皆さんにお知らせしたいのです。これは、サヨクと自称保守との欺瞞を一刀両断できる議論だからでもあります。


ですから、この議論の有益性について今から話を始めたいと思ひます。


まづ、「立憲主義」とか「法的安定性」といふことについて、厳格な定義をしないまま議論を始めると、どうしても曖昧で情緒的になつてしまつたりして、議論が噛み合はないことが多いので、本来であれば、議論を行ふ前提として、これらの定義を固定させて始める必要があります。


一般に、立憲主義とは、憲法を制定し、それに従つて統治をし、あるいは憲法を憲法の定める手続に基づいて改正するといふ政治の原則を意味し、法的安定性とは、法の安定性(法それ自体が安定してゐること)によつて法による安定性(法による社会秩序維持が社会生活を安定させること)が実現してゐることを意味しますが、これ以外にも様々な定義が考へられます。


社会契約説といふチンケな考へにより、立憲主義とは、憲法が権力に対する国民の制限的な命令だとする見解もありますが、憲法が国民間で締結される契約であれば、権力に対する授権があることの前提としての制約ですから、国民の自由と権利を制約し、義務を課すことも権限を国民の選んだ政府に授与することも当然に認めざるを得ないのです。ましてや、国民主権であれば、権力の源泉は国民なのですから、統治者たる国民が同時に被統治者たる国民といふ「自同性」を認めるといふことになります。「自同性」といふのは、実のところ、法律屋の編み出した誤魔化しのための業界用語(ジャーゴン)であり、これは、自分が自分との間で契約するといふ「自己契約」(民法第108条)のことなので無効なのです。それでも有効な社会契約として認めるのはどうしてでせうか。


また、国民主権なら、被統治者である国民が統治者である国民の政府に、その国民国家を防衛せよと命令するのは当然のことで、国民主権を認めるのであれば、その国民国家の対外的防衛を行ふ権利と義務を肯定することになりますので、そのためには、スイスのやうに、国民皆兵制、徴兵制は当然の帰結になります。国家の自己自衛のために戦ふことを拒否し、国民皆兵を拒否するのは、国民主権を放棄ないしは否定するといふ自己矛盾に陥ることになります。


ともあれ、立憲主義の概念自体が矛盾を含み、多種多様の定義があることからすると、この議論を始めるための鉄則の通りに、この定義の「確定」から出発して議論するとなると、サヨクや自称保守からしてみると、それは思ふ壺になります。

どうしてかと言ひますと、その定義とは異なる見解の人が、納得してゐない定義のままで議論するとしたら、仮りに、自説が不利になつてくると、その争点は定義の違ひによる誤解だとか、意図的な誘導であるなどと弁解して、議論することを避けてしまふ口実を与へてしまふからです。


ではどうすればよいでせうか?


それは、「事例比較」といふ手法を用ゐることです。


これらの定義については、言葉の守備範囲からはみ出さない限りにおいて、自由に決めてもらつて結構です。その代はり、その自説のとほりの定義に基づいて、立憲主義や法的安定性が問題となりうる幾つかの事例を提示しますので、これらの事例を比較して、どの事例が最も問題となるのか、問題となる順に並べてもらふことなのです。


これなら、定義の違ひだと言つて、議論から逃げることは絶対にできなくなるからです。


そこで、これから、次の4つの事例を挙げますので、そのうち、どれが一番問題なのか、つまり、立憲主義、法的安定性に違反してゐる程度の大きい順に並べてもらふことになります。

そして、その序列に決めたことの理由についても説明してもらふことになります。


では始めませう。


その4つの事例とは、時系列を遡つて列挙しますと、

  ① 今回の安保法制の成立(平成27年)
  ② 自衛隊の創設(昭和29年)
  ③ 警察予備隊の創設(昭和25年)
  ④ 占領憲法の成立(昭和21年)

 となります。


これらについて少し説明しますと、①は、独立後である最近になつて国会の手続を経て成立した事例です。これが立憲主義と法的安定性を害すると主張するのですから、この事例は、それ以外の②ないし④と比較するための基準となる事例ですので、絶対にこれは列挙しおく必要があるものです。

次に、②は、占領憲法が施行され、かつ、独立を回復した後に、交戦能力のある実力組織である自衛隊が国会の手続を経て成立した事例です。

また、③は、その自衛隊の前身として、占領憲法が施行されたものの、未だ独立を回復してゐない非独立の占領時代に、交戦能力のある実力組織である警察予備隊がGHQ指令によつて編成された事例です。

そして、④は、帝国憲法の効力が継続してゐるものの、独立が奪はれ、GHQの完全軍事占領の時代に、GHQの指令によつて帝国憲法第73条及び第75条及びハーグ陸戦法規条約に違反して帝国憲法を全面改正した事例です。


ところで、警察予備隊や自衛隊が、占領憲法第9条第2項前段の「戦力の不保持」に違反するか否かについては、それが自衛の目的のためであるか否かといふことによつて違反するか否かを区別することは明らかに詭弁です。このことだけは、サヨクの主張が正しいのです。


そもそも、「目的」による区別といふのは客観的基準にもなりませんし、現実において武装が強化されることの歯止めにも何にもならないので、実効性が担保されません。

ですから、「戦力」の解釈は、専ら客観的基準によつて判断すべきです。それは、第9条第2項後段にある「交戦権否認」の文言があることからして、「戦力」とは、「交戦能力」がある「物的装備」と「人的組織」を有してゐるかによつて判断する必要があります。


さうすると、少なくともサヨクからすると、①が立憲主義と法的安定性を害するのであれば、それ以上に②及び③は、すべて違憲であり、著しく立憲主義に違反し法的安定性を害してゐることになります。そして、その程度が重大な事例の順に並べると、これまで非武装状態(武装解除状態)であつたのに、突然に交戦能力を備へた③の警察予備隊が創設されたことが、最も劇的に立憲主義に違反し、法的安定性を害した事例となるはずです。

そして、その次に、警察予備隊を更に増強させて本格的な交戦能力を備へることになつた②の自衛隊の創設は、③に続くものです。


そして、①は、③から②へと進み、日米安全保障条約と一体となつた延長上に登場してきた連続的な事態ですので、③や②よりは、立憲主義や法的安定性を害する程度は小さいはずです。むしろ、憲法の条項に従つた国会の手続を経てなされたものであることからして、①は立憲主義に違反せず、法的安定性を害するものではないとの反論の方に説得力があるはずです。


ところが、サヨクの言ふ立憲主義違反といふのは、手続の不備や違反などのことではなく、占領憲法第9条違反だと主張することにあります。つまり、専守防衛から集団的自衛権の限定的容認をしたことが憲法違反だと言ふことです。


しかし、自衛権が認められたとしても、そもそも交戦権は認められないので、自衛のための交戦権行使、すなはち、自衛戦争もまた認められないといふのが占領憲法第9条第2項後段の趣旨です。ここには、「国の交戦権は、これを認めない。」とあるためで、何らの限定もない無制約な規定です。これに対し、同条第2項前段には、「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」とあつて、「前項の目的を達するため」といふ限定はありますが、後段の「国の交戦権は、これを認めない。」には、「前項の目的を達するため」の限定が置かれてゐないからです。


憲法解釈業者たちの殆どは、この度の安保法制が憲法違反であると主張する以前に、自衛隊の存在自体が違憲であると主張してゐますので、ある意味では一貫性があります。自衛隊の創設も、それ以前の警察予備隊の創設も違憲であれば、論理必然的に、その自衛隊の活動自体が違憲ですので、自衛隊の活動範囲を拡大する安保法制が違憲であるといふことは、親亀・子亀・孫亀の法則からも当然のことだからです。


ところが、サヨクは、同じやうに自衛隊の存在自体が違憲だと言ひ続けながら、それではとても世論の支持を得られないとの政治的な「打算」から、安保法制「のみ」を違憲だとする御都合主義による主張してゐるだけです。


この認識については、自称保守の多くも異議がないはずです。つまり、自称保守は、本音を言へば、警察予備隊とそれに引き続き自衛隊を創設するなどの解釈改憲を強引にし続けて今日まで歩んできたのであつて、歴代の内閣、特に、自社さ政権の村山内閣ですら、自衛隊合憲、安保堅持と表明したのですから、いまさら安保法制の成立の程度如きで大騒ぎするのは可笑しいと言ひたいのでせう。

人を殺しても無罪(②③は合憲)になつたのだから、その死体を損壊についても当然無罪(①も合憲)だと開き直つてゐるだけです。しかし、このことを大つぴらに言へないので、自称保守はこの議論に加はらない(加はれない)だけなのです。


ところが、サヨクも自称保守も、①②③の違憲の主張の延長線上にある④の問題を議論することは致命傷を負つてしまひます。


④は、誰が考へても、立憲主義違反であり、法的安定性を害してゐます。しかも、その程度は、①②③のいづれよりも甚だしいもので、憲政上最大の立憲主義違反であり、法定安定性を著しく害した事例です。独立を奪はれた状態の完全軍事占領下で、GHQの強制によつて帝国憲法の全部が改正されるやうなことを立憲主義違反でないとする見解があるはずがありません。この④が立憲主義違反でなく、①が立憲主義違反であるとするのは、倒錯した憲法論でしかあり得ません。


サヨクが、その本音を隠して、①だけを立憲主義違反だ喧しく主張するは、まさに政治目的の御都合主義による著しい詭弁です。日弁連や全国の弁護士会も同じ詭弁を使つて、それこそ憲法違反の活動を続けてゐます。


もし、サヨクも自称保守も、立憲主義違反の程度が高い順で並べるとしたら、④③②①の順になるはずですが、そんな全面戦争となるやうな議論は保身のために避けるのです。この議論をすれば、これまでの欺瞞が暴露され、自説が完全に崩壊するからです。


みなさん! 是非ともサヨクや自称保守の人にこの事例比較の質問をして、アンケートを集めてみてください。学者でも学者もどきの人にも聞いてみてください。


そして、その問答を録音などして私に送つてきてください。こちらで整理して発表したいと思つてゐます。


ヨシコちゃん、アキラちゃん、ヒデツグくん、セツくん、ツネヤスくん、そしてシンゾウくん、その他の我と思はん人は誰でも結構ですから、必ずこのアンケートに答へてください。よろしくお願ひします。


最後に一つだけ、立憲主義と法的安定性についての私の見解をお話します。


真正護憲論(講和条約説)とは、占領憲法は立憲主義に違反し法的安定性を害するが故に憲法として無効であり、そして、別の視点から、立憲主義と法的安定性のために、帝国憲法第76条第1項に基づいて、占領憲法を講和条約の限度で有効であるとする見解なのです。


つまり、真正護憲論ほど立憲主義と法的安定性を重視する見解は他にはありません。ですから、占領憲法は無効だから、いくらでも解釈改憲してもよいし、改正できなくともその先取りをして、仮に違憲と批判されてもどんどんと法律を制定してもよいのだといふ乱暴な議論を決してしてはならないと主張してゐるのです。


南出喜久治(平成28年3月1日記す)


前の論文へ | 目 次 | 次の論文へ