自立再生政策提言

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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第四十七回 グローバルなもの

よなほしの すべはいづくと たづぬれば をさなごこちの われにかへれと
(世直しの術を何処と尋ぬれば幼心地の我に返れと)


グローバルなもの、グローバル・スタンダードといふのは、決して世界に普遍的なものといふものではなく、アメリカの価値観を世界に押しつけるためのもので、アメリカン・スタンダードのことを意味します。


普遍的なものといふ意味としては、これまでは、ユニバーサルといふ言葉も使はれてゐました。しかし、ユニバーサリズムといふのが、普遍救済説を唱へたプロテスタントの一派、ユニバーサリストを指すことから、混同させないためにも次第に使はれなくなつたやうです。

これと同様に、コスモポリタンといふ言葉も、コスモポリタニズムがストア学派やカントなどが説いた歴史的な言葉であり、インターナショナリズムとの対比でも思想的な対立概念として使はれたことや、コスモポリタニズム批判といふ言葉がソ連のユダヤ人攻撃のキャンペーンの言葉として使はれたことなどから、次第に使はれなくなり、消去方的にグローバルの言葉が使はれることになつたのだと思ひます。


ここで指摘するアメリカの価値観といふのは、自由、人権、個人主義、民主主義、資本主義、自由貿易、そして、アメリカがイギリスからの独立と自由を求めた独立戦争の根拠とした革命権(独立権)を正当化する考へです。


ジャスミン革命とかアラブの春といふ美辞麗句の言葉で誤魔化して中東にもたらした混乱も、アメリカがこの革命権の思想を輸出したものでした。


ところで、ソ連が崩壊するまでは、我が国では、「保守」か、「革新」か、といふ対比で、政治思想を分類してゐましたが、最近では使はなくなりました。このときの「保守」とは「親米」、「革新」とは「反米」です。つまり、日米安保を堅持しようとするのが保守(自民)で、破棄しようとするのが革新(社共)でした。

さらに遡ると、共産党は、資本主義を否定する革命路線を貫いてゐたものの、GHQの占領初期に、連合軍を解放軍だとして歓迎したり(親米)、帝国憲法改正の際には、この改正が帝国憲法第73条に違反するとして、占領憲法無効論を主張したのも共産党(野坂参三)でした(反米)。

他方、自民党は、資本主義と自由貿易体制を堅持することを一貫として掲げて、親米路線をひた走つてゐますので、これを「保守」だとするのは大いに疑問があります。


つまり、保守とは何かといふことになりますが、一般に、保守主義者とは、理性は万能ではなく合理主義(rationalism)を懐疑する者のこととされてゐますので、理性は万能であるとして革命と計画統制経済を企てる共産党が「保守」ではないことは当然であるとしても、これと同様に、理性は万能で、合理主義によつて編み出された資本主義も自由貿易体制も誤りがないとする自民党もまた「保守」ではありません。


ベトナム戦争報道でピュリッツァー賞を受賞したハルバースタムは、「保守主義者」とは何かといふ定義をして、概ね次のやうに説明しました。

それは、将来に向けて節約して備蓄し、質素倹約して、支出は収入の範囲内にとどめ、過去の栄光や現在の豊かさがいつまでも続くと信じない懐疑主義者のことであると。


さうすると、平成27年1月に、利益を社内留保する企業を「守銭奴」と決めつける発言をした副総理兼財務大臣等を務める麻生太郎氏の属する自民党が保守主義者の団体であるはずはないのです。


これ以上購入して消費するものがないし、これ以上必要なものがないので、後は将来のために貯蓄に回さうとして、国民の消費が限界に達した状態が現在の「消費不況」ですが、それでも無理にでも消費せよと奢侈に走ることを囃し立て、質素倹約は美徳ではなく、守銭奴のなせる技であるとする主張が、「保守」ではありえません。


また、最近は、政治勢力の分類において「リベラル」といふ言葉も使ひますが、自由とか人権とか民主とかが至上の価値があると信じ、理性万能を信じてゐる点において「保守」ではありません。


伝統文化などを守り、これまでの制度を守るといふのを保守主義といふ場合がありますが、共産党ですら、勢力拡大に利用できる都合の良い制度(占領憲法体制)を守ると言つてゐますので、保守主義と先例主義とは紙一重です。

特に、官僚は、占領憲法擁護の強力な推進者であり、「戦後体制保守」勢力です。先例主義といふ「理性」による「保身」に支配されてゐるだけで、ここには歴史、伝統などに根ざした国家観はありません。単なる先例墨守の技術思想に過ぎないので、保守主義ではなく先例主義なのです。


いづれにせよ、理性が万能であるとする合理主義を否定し、あるいは懐疑するのが「保守」であれば、その否定を含む懐疑の源泉は「本能」であることです。


そして、この合理主義の礼賛と合理主義への懐疑とは、これまで世界の政治、経済、社会その他人の活動に関するすべての事象において対立軸となつてゐました。


しかし、実際問題の対立が必ずしもすべて理性と本能の対立軸で生まれたものとは限りません。むしろ、理性と理性、論理と論理の対立によるものが熾烈な対立と紛争を引き起こしてきたのが、資本主義と共産主義の対立です。これは、合理主義同士の対立です。そして、それが全世界的に繰り広げられた点において、グローバルな対立でした。


ともあれ、グローバルなものが、目に見える形で世界を席巻した初めのものは、自動車でした。アメリカのフォード社のフォードT型が、大量生産、大量消費といふグローバルな産業資本主義によつて形成される社会を産み出す嚆矢となり、このフォーディズムによつて、アメリカのみならず全世界の生活様式が画一的に塗り替へられて激変したのです。


フォーディズムとは、フォードが提唱した経営思想とその実践であり、それは、大量生産の製品を通じて社会に貢献することでした。従業員には高賃金を、顧客(消費者)には低価格で商品を提供し、収益を社内留保してそれを再投資の目標にしようとするものです。

その結果、資本家と労働者といふ対立構造の意識が希薄になり、従業員は労働者ではなく顧客(消費者)として取り込まれ、労働者自身も、市場経済において、よりよい生活を求める消費者として自覚するに至りました。

イタリア共産党の創立者であるグラムシもフォーディズムを容認したことなどから、これが欧州における共産主義者の認識に大きな変化を与へたのです。


リカードの自由貿易論などの影響を受けたマルクスの経済理論は、政治理論化して共産主義を生み出しましたが、この共産主義は、政治思想においてのみ敗北したのではありません。経済思想でも敗北したのです。そもそも、成熟した資本主義国家でこれまでマルクスの理論通りに革命が起こつた国はありません。封建国家において、共産主義を標榜した全体主義国家の革命が起こつただけで、これは共産主義理論による歴史的必然性による革命ではありませんでした。


その論理と現実の矛盾に加へて、目に見える形で大量生産と大量消費の資本主義社会を生み出したフォーディズムが出現したことにより、共産主義はこれに破れたのです。


フォーディズムの出現により、労働運動にも当然に変化が生まれました。労働者団体が賃上げしか言はなくなり、労働といふもの自ら進んで商品化させた上、革命思想の奨励、富の再配分の推進、累進課税の導入などの共産主義的な政治主張をすることがなくなり、自己の利益だけを守ろうとするだけで、政労使の協議で賃上げ交渉する単なる資本主義擁護の団体と化し、正規雇用者の既得権益を擁護するための特権的な利益団体、圧力団体となつて、社会全体の変革を目指さなくなりました。


このやうにして、資本家と労働者との構図は、生産者と消費者といふ構図に変化し、消費者の権利といふ空虚な個人主義を全世界に蔓延させることになりました。その結果、大衆社会といふ没個性、非公民化が進み、生産者は生産だけ、消費者は消費だけといふ極度の分業体制の社会が生まれ、どこに行つても、同じやうな品質な商品が手に入り、どこでも同じ無機質な建物が建ち並び、地方の特色や個性を全く感じさせない画一性が生まれたのです。


このやうな傾向は、グローバルなもので、この資本主義と自由貿易を推進させる根底にあるものは、一言で言へば、「分業体制」を推進すればするほど経済発展をもたらすといふ進歩史観の合理主義です。経済規模を拡大するためには、徹底した分業と専門化が必要となるからです。

この「分業体制」といふのが、経済部門におけるグローバルなものの中核であることを私たちは強く意識する必要があります。


分業によつて、経済効率、作業効率が高まり、安価で均一な商品が大量生産され、消費者の需要に応へることができます。これを続けることによつて経済発展し、豊かな社会が生まれるといふ訳です。それをフォーディズムが先陣を担つて、産業資本主義を押し進めたのですが、それによつて膨れあがつた資本が拡大再生産を上回るほど膨大となつたために、その余剰資本が生産部門から金融部門へと大きくシフトし、多種多様な金融商品を追ひ求めて加熱する金融資本主義を生み出しました。

そして、この金融資本主義が世界を駆け巡つて支配して、まさにグローバルなものになつてゐるのが現代社会なのです。すべては分業体制の進展の結果によるものです。


これが世界に不安と混乱を増幅させてゐます。不安と混乱の元凶は、まさに合理主義が生み出した分業体制がグローバルなものの根元にあるためです。そのために、この「理性」の誤りを「本能」で修正して、「修理固成」の方向転換をする必要があります。


転換すべき方向は、まさに分業とは逆方向なのですが、もし、急ブレーキをかけてさらに逆走するとなると人々の生活に大きな障害が出ます。そこで、徐々に減速しつつ大きく大きくカーブして方法を逆方向に定めて行くのです。


最近、資本主義の終焉とか、さらば資本主義とか、資本論を読み直せなど言つたやうな大仰な題名の書籍が出回つてゐますが、いづれも人々に不安を掻き立てるだけで、現在の過剰な金融資本主義に翻弄されてゐる社会を具体的に変革する解決策や資本主義に代はりうる社会制度の代案を一切示さずに、単なる精神論とか勝ち組になるための方法論を示すだけの羊頭狗肉の本ばかりです。「不安産業界」に売文業者の多くの者が新規参入しただけのことです。

「不安産業」といふのは、人の不安に付け込んで商売をする事業のことで、宗教団体や医療団体などのことでしたが、これに一般の売文業者も参入してゐるといふことです。


しかし、私は、その解決策について、第28回から第37回までの「方向貿易理論」と、『國體護持総論』で「自立再生論」による社会を詳しく描写しました。もし、不安産業の売文業者であるといふ批判に対して反論があるなら、私の解決策に代はりうる代案を示すべきです。


ともあれ、自立再生論は、「割れの世界」(分業、拡散)から、「結びの世界」(收束、統合)の世界へと転換させることを提唱してゐます。

産業規模を極大化、無限大にすることではなく、極小化、無限小を目指すことによつて、大きく内需を拡大させますので、政治の力でその政策転換を行つたとしても、その政策の実施過程において経済の停滞を招くことはありません。


そして、「結びの世界」は、必然的に祭祀の道を意味します。これにより、資本主義も、自由貿易も、労働の商品化もなくなり、人々は、生産者でも消費者でもなく、これらを統合した生活者(公民)となつて世界は安定と安心を取り戻すことができます。


これこそが真の意味でのグローバルなものなのです。真に普遍的でグローバルなものは、本能の原型として集約された「幼心地」に宿つてゐるものなのです。


南出喜久治(平成28年3月15日記す)


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