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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第八十六回 篠田英朗の憲法論

うけうりの あたましかなき をこのもの ひとかどよそふ ふりぞあさまし
(受け売りの頭脳しか無き痴の者(学者)一廉装ふ振りぞ浅まし) )

ちくらのおきど第八十五回で述べたとほり、井上達夫と同様に、長谷部恭男の「法律家共同体」に入れて貰へない者は、他にも沢山居る。


篠田英朗もその一人である。


篠田は、井上が指摘したのと同様に、長谷部恭男と杉田敦の対談「平和主義守るための改憲ありえるか」(平成27年11月29日付け朝日新聞)に、長谷部が「法律の現実を形作っているのは法律家共同体のコンセンサスです。国民一般が法律の解釈をするわけにはいかないでしょう。国民には法律家共同体のコンセンサスを受け入れるか受け入れないか、二者択一してもらうしかないのです。」といふ言葉を、その著書『ほんとうの憲法 戦後日本憲法学批判』の冒頭に引用した。


さらに、この法律家共同体に属する木村章太が、法律家共同体の見解とは異なるものに対して、「まともな相手をする水準ではない」、「無責任の極み」、「かなりスキャンダラス」、「あまりに無責任」、「理解不能な水準」、「あまりに姑息」、「心の底から呆れ果てる」といふ、それこそあまりにも低水準のヘイト発言を紹介した上で、「憲法学者コミュニティの知的閉塞」として、次のとほり批判した。


「果たして憲法は、憲法学者という肩書を持つ者だけによって独占的に解釈されるべきなのだろうか。憲法学者と異なる解釈をする者は、憲法学者と異なる解釈をしているがゆえに、非難されなければならないのだろうか。」

「憲法典の解釈も、「立憲主義」の解釈も、憲法学者が独占的に行うべきとされ、総理大臣も国際政治学者も、憲法学者の解釈にしたがうのでなければ侮蔑される。絶大な社会的権力を誇る戦後日本の「抵抗の憲法学」のドクトリンである。」


これは、概ね当然とも言へる見識である。


しかし、「概ね」なのである。この批判の趣旨は全く正当であるが、これに秘められた思惑が間違つてゐる。


その思惑とは、「総理大臣も国際政治学者も」として、国際政治学者を総理大臣と並列的に例示し、それ以外の一般人を「排除」することにある。つまり、政治家やその他の学者など、いはば最近流行してゐる「有識者」全般にまで、憲法解釈の独占権のある法律家共同体の範囲を拡大すべきであることを、既得権益のある法律家共同体に認めさせようとする思惑である。


この思惑は、篠田と井上とに共通したものと思はれる。現に、井上が、「諸事多亡」といふ誤字による表現で私との面談を拒絶したのは、「俺は大学教授だけれど、お前は高卒の弁護士に過ぎないので、まともな相手をする水準ではない」から、「諸事多忙」を口実として無礼な言葉で面談を断ることをなんとも思つてゐないからである。

いやしくも学問で身を立ててゐる学者であれば、自分の吐いた「立憲主義」の概念についての疑義と矛盾を問はれてゐるのであれば、諸事多忙であつてもその弁明を最優先にすべきであつて、面談拒絶の理由には到底ならない筈である。


それにしても、法律家共同体といふ憲法解釈権の独占ギルド(憲法ギルド)は、その周辺者である井上や篠田が新規参入することを決して認めない。勿論、憲法ギルドは、東大系の憲法学者が圧倒的な主流(本流)であり、東大系の他の学者や他大学系の学者であつてもこれに尻尾を振つて迎合するのであれば二流以下の学者も入れて貰へるが、井上や篠田らのやうに、これに異議を唱へる者は人間扱ひされてゐないのである。


そして、井上や篠田らの排除された周辺者らも、私たちのやうな一般人が憲法議論に参入することも認めないといふ重層的な排他的構造になつてゐるのである。


前回、井上達夫について述べたが、彼も法哲学でチマチマやつて長いものに巻かれて迎合してゐれば無難だつたのに、なまじ憲法のことに言及し、石川健治に噛みついて原理主義的護憲論の欺瞞性を徹底的に批判したがために、ギルドから締め出される運命となつた。


このことは、憲法学ではなく国際法学の学者についても同様なことが起こつてをり、安保法制が違憲であるとする憲法ギルドの見解に逆らつた者は完全に排除された。


かくして、その典型的な一人が篠田英朗なのである。石川健治の唱へる「抵抗の憲法学」を徹底的に批判し、安保法制を合憲と主張したからである。


そして、彼は、かうつぶやいてゐる。

「憲法学者は、日本社会において絶大な権力を誇っている。憲法学者の書いた基本書を信奉するのでなければ、司法試験に受からない。それどころか公務員試験ですら通らない。学界のみならず、法曹界、官僚機構、そして政界にも絶大な影響力を誇るのが憲法学者である。」

と述べて、早稲田大学出身であり、憲法学者でもない自己の立場を歎いてゐる。


つまり、篠田が指摘するとほり、芦部信喜は、「『押しつけ憲法論』や『現行憲法無効論』それ自体は、ごく一部の、学界からほとんど顧みられない主張である。」として批判するだけで、理論的な批判ができないままこの世を去つた。芦部だけでなく、その他の憲法学者も無効論に対して理論的な反論が全くできてゐないのは事実である。


しかし、篠田もまた無効論について言及しないし、この点については、同じ穴の中の狢である。篠田もまた占領憲法真理教の信者なのである。これを否定すれば、そもそも占領憲法の解釈業者として生きては行けないのであり、なんとか憲法ギルドの周辺に留まつて主流になれる逆転劇を夢見るが、それはそう簡単なことではない。


しかも、篠田は、占領憲法の全面改正論と占領憲法の無効論とを同列に捉へてゐるほどの浅はかな知識しかない。


そして、同じやうに、ギルドからのはみ出し者同士である井上達夫とも憲法観が違ふので共闘はできないでゐる。

はみ出し者同士連帯すればよいのに、占領憲法真理教の分派同士は、宗教団体の場合と同様に、近親憎悪によつて殺し合ひをするしかないのである。


ところで、篠田の憲法観は、一言で言ふと、「社会契約論」である。占領憲法は、人民相互の社会契約といふよりは、人民と政府との「統治契約」(信託契約)であり、さらに、日本と連合国との「国際協調契約」として捉へてゐる。

従つて、立憲主義については、国民が権力を縛るといふ「抵抗の憲法学」ではなく、契約内容によつて相互に権利と義務が認められるといふのである。

そして、そこから、風が吹けば桶屋が儲かる式で、安保法制の合憲性を肯定したために、注目されることになつた人である。


しかし、篠田は、その出身校である早稲田大学の法学部教授であつた有倉遼吉が、占領憲法は「講和大権の特殊性によつて合法的に制定された」とする見解を唱へてゐたことを知らないのであらう。


つまり、講和条約(契約)を締結できる根拠が帝国憲法第13条の講和大権である点を看過してゐるのである。講和大権に基づいて締結された「国際協調契約」であれば、帝国憲法体系を根本的に否定する契約はできないのであつて、このことは、安保法制といふ些末な議論を超えて、占領憲法の効力論争をしなければならないことを思ひ知らなければならなくなるのである。


それはさておき、憲法ギルドに向けて、いろんな批判が出てくることは望ましい傾向である。


そして、

「憲法解釈を国民の手に」
「法律家共同体を解体しよう」
「憲法解釈権の独占は国民主権主義に反する」

と言つたスローガンのルネサンス運動が生まれてもおかしくはない。


国学の起こりは、万葉集研究による和歌の大衆化にあつた。一部の貴族による閉鎖社会の文化が、大衆化して行つた経緯と、国学の広がりとは見事に一致する。

これと同様に、閉鎖社会の憲法ギルトが解体され、独占されてきた憲法論が大衆化することによつて、いづれ占領憲法は確実に淘汰されて行くのである。

南出喜久治(平成29年11月1日記す)


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