自立再生政策提言

トップページ > 自立再生論02目次 > H31.02.01 第百十六回 本能と理性 その三

各種論文

前の論文へ | 目 次 | 次の論文へ

連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第百十六回 本能と理性 その三

あまつかみ くにつかみをぞ おこたらず いはひまつるは くにからのみち
(天津神国津神をぞ怠らず祭祀るは国幹の道)


1、2、3、4・・・といふ単なる順序を示す数字の序列は、その数字の大小の違ひだけで価値の大小が決まりません。そもそも理性的には、数とはものの価値と無縁の単なる符号(記号)だからです。


しかし、その記号も、何らかの値として計測された数値を示す数字として用ゐられる場合は、その数値の大きい方が価値が大きかつたり、逆に数値の大きい方が価値が少なかつたりします。


これは、単に理性による論理の結果に他なりません。


その意味では、日付についても、これも単なる時間の経過を示す記号としての数字です。先の日付と後の日付とは価値の大小とは関係がありません。理性による判断では、ただそれだけです。


ですから、元旦を祝ふ。誕生日を祝ふ。その他の祝祭日を祝ふ。こんなことは理性ではうまく説明できません。特に、我が国では、毎日が何かの記念日になつてゐます。こんなことになつてゐるのは、我が国が祭祀の国である由縁でもあります。


そもそも、祝ふとか、弔ふといふ感情や行動は、本能と祭祀によるものです。


本能と祭祀の世界では、数は理性の世界のやうな単なる記号ではなく、「数霊」の根源となるものです。「数」それ自体に価値があるのです。


そして、言葉もまた理性では記号に過ぎませんが、本能では、言霊の世界においてそれぞれ価値があるものなのです。


宗教においても、祝ふとか弔ふといふ行事に宗教的な意味を持たせるのは理性の働きであつて、教義とは無縁です。

しかし、このやうに言ふと、様々な宗教教団でも、初めから行事として、生誕祭などがあるではないかといふ反論があると思ひます。


ところが、人には、祭祀の心の本能がありますから、その信者たちの要望や、宗教経営者がその要望を受け、あるいは独自の経営的視点から、さういふ行事を行ふことを教団として受け入れてきたきたのです。

つまり、理性を働かせることによつて、計算を巧みにし、教団も、そのやうな寛容な態度をとることによつて多くの信者を獲得できるといふ計算が働くからです。


もし、生誕祭などを祝へなどいふ教組が居るとしたら、それはかなりの俗物です。宗教は、一にも二にも不断の信心と信仰ですから、特別の日だけに特別の信心や信仰が必要となることなどは到底あり得ないはずです。


多くの宗教は、祖先崇拝を禁止します。祖先を敬ふか、本尊(God)を信仰するか、といふことは両立しそうにも思ひますが、祖先が築いてきた考へと、宗教の教義とが相反することがいつも起こりえます。そんなとき、必ず宗教の教義を最優先し絶対視させなければ信仰が成り立ちません。


ですから、そんな危険が生ずるものは初めから全否定しなければ教団しての組織防衛ができなくなるので、邪魔なものは一切排除せねばならないのです。


具体的には、今日は祖先の法事があるなどとしてその日の宗教行事に参加しないことを認めたりすると、教団の組織防衛は崩壊します。祭祀は、それが頻繁になされる信仰だからです。祭祀も宗教も、広い意味では信仰です。ですから、この似て非なる祭祀を信仰の世界から絶対に排除しなけれはならないのです。


しかし、教団の維持拡大に邪魔にならないものは排除する必要はありません。本尊(God)の絶対性を認め、あくまでも従として祖先崇拝を受け入れるのであれば、認める教団もあります。それは、その地の信仰環境によるもので、一神教同士と熾烈な対立のある信仰環境の地では、認められないものの、我が国のやうな本質的に祭祀の環境のある地では、あまり厳格にすれば信者が離れてしまふので、建前はだめでも、実質はこれを認めて放任するといふ教団もあります。さういふ便宜的、御都合主義的な方法も、教団の維持拡大のための仕組まれた計算の結果です。


ですから、排除されるのは、宗教にとつて決定的に邪魔なものであることの証なのです。祖先祭祀や自然祭祀、英霊祭祀などは、宗教にとつて不倶戴天の邪魔ものとされる由縁はここにあります。


イエスが生まれた日は解らないので、当時から盛んだつた冬至祭にあやかつて、これに便乗してクリスマスの日を決めて聖誕祭の行事をすることは、それを契機に新しい信者を獲得する切つ掛けになつたり、これまでの信者を繋ぎ止めるための巧妙な心理的装置になります。宗教活動としての信者の維持と獲得のための営業行為として理性的計算で行はれるものです。


この日に何かをしたらこんな良いことがあるとは到底言へませんが、キリスト教に帰依すれば、こんな楽しい日がみんなと過ごせますといふのは、宗教思想上において強力な販促行為となるのです。


そして、クリスマスの日が日曜日などの安息日でなくても、実質は休みになる利点があります。韓国では、クリスマスだけでなく釈迦生誕日(花祭り)も祝日になつてゐます。


ところで、安息日といふのは、ユダヤ教固有の考へですが、イスラム教が金曜日、ユダヤ教が土曜日、キリスト教が日曜日といふやうに安息日が決まつてゐることについても、特別の意味はありません。棲み分けして決めないと各宗教の営業が混同するので、別々の日に決めたのは巧妙な宗教カルテルによる計算の結果なのです。


ところで、人間の能力である本能と理性との相違は、人間の信仰である祭祀と宗教との相違に決定的に反映します。


宗教の教義は、本質的に祭祀とは両立しません。

特に、過去(祖先)と現在(自己)と未来(子孫)との関係は、祭祀では「縦」、宗教では「横」になります。


宗教では、本尊(God)と人間とは、天上と地上とで隔絶されてをり、天上と地上とを結びつけるものは全くありません。それゆゑ、地上の人間は、すべて横並びであり、「人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」として、祖先であらうが、子孫であらうが、親子、夫婦、兄弟姉妹、それに隣人や赤の他人もすべて平等です。コスモポリタニズム(世界市民主義)が基本となります。


人間には思考(理性)の働きがありますから、理性によりGodを想念します。理性のない動物には、Godを想念することはできません。ところが、人間は、その想念の産物であるGodから人間が造られたとします。


つまり、
 God was born(by humanity)
から出発した筈のものが、いつしか
 I was born(by God)
になるのです。


これは、典型的な循環論法であり、いつまで経つても循環し続けるだけで、形式的には結論も矛盾も出てこないといふ、大いなる「矛盾」によつて宗教は成り立つてゐることになります。多くの人がこれに明確な矛盾を感じないために、宗教はこれまで長続きして思考停止の人類史を作つてきたのです。


ですから、この循環論法の枠外に存在するところの、祖先を敬ふといふことが、宗教ではそもそも成り立たないのです。いな、成り立たしてはいけないのです。


これに対し、祭祀は、地上の自己の頭上に、父母や祖先があり、それが高く繋がつて天上にまで届き、地上と天上とが縦に繋がつてゐると想念します。そして、そして、その祖先の総体が「カミ」なのです。


このやうに、信仰世界においても、宗教は横、祭祀は縦といふ全く別の信仰構造になつてゐるのです。


人間は哺乳類であり、例外なく父母が居ます。そして、その父母にもそれぞれ父母が居ます。そのやうに逆ピラミッドのやうに存在する祖先が居ることは、否定できない真実です。科学です。それが過去と未来において無限に繋がることを前提とするものです。祭祀は、形而下の確実な事実によつて出来上がつた体系であり、宗教やうな循環論法といふ空想による非科学的なものではありません。


宗教の限界は理性の限界によるものです。しかし、祭祀には、限界がありません。

親から子、子から孫といふ自己の経験による帰納法的な実感を基礎として、過去へと、そして未来へと無限大と続く理性による数学的論理を感性によつて瞬時に知ることが出来る世界なのです。

南出喜久治(平成31年2月1日記す)


前の論文へ | 目 次 | 次の論文へ