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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第百十七回 本能と理性 その四

あまつかみ くにつかみをぞ おこたらず いはひまつるは くにからのみち
(天津神国津神をぞ怠らず祭祀るは国幹の道)


人の能力に関する本能と理性、そして、人の信仰に関する祭祀と宗教とが相似することは既に述べました。


人の営みは、信仰世界だけに限らず、全ての事象において、本能と理性との兼ね合ひによるものです。


その中でも、信仰世界は、人の営みに大きな影響をもたらしますので、本能と理性について考へるについて、信仰世界における祭祀と宗教との関係を十分に理解しておく必要があります。


理性を至上のものと考へ、本能といふのは欲望だと決めつけて、これを卑しいものであるとして、本能を理性によつて押さへ込む生き方が正しく豊かな文明なのであるとするのが合理主義(rationalism)の考へです。

これは歴史的には古く、ギリシア時代、ローマ時代から始まります。この時代から、リベラル・アーツといふ、自由と合理主義による教養によつて闇を無くすといふ後の啓蒙思想に繋がるものが芽生えます。


いまでも、合理主義を信じて疑はず、リベラル・アーツを基本とした合理主義教育が理想であるとして、大学教育に取り入れてゐるところも多くあります。


そのリベラル・アーツとは、人間が習得すべき実践的で基礎的な技術と教養のことです。社会生活を営むには、これを習得することが最低限必要なものといふことです。ギリシア時代やローマ時代のリベラル・アーツは、いまほど合理主義に毒されず、当然に、ギリシア神話やローマ神話などの宗教的素養も含まれてゐました。


人間が生きて行く上で必要なものは、生きるための実学であり、単なる教養や知識ではありません。祭祀の心、感謝の心を得るために学問をすることが必要なのであり、知識を得ることが学問の目的ではありません。知識が豊かになれば心が貧しくなることが多いので、何のための知識なのか教養なのがを問ひ続けなければなりません。


古代ギリシア人は、神々と人間の祖先とは共存してゐたものと考へてをり、神と人間との連続性を認識してきました。そして、死者の魂は冥界に行き、死後の世界があるとする世界観を持ち、これはローマ人にも受け継がれて行きました。

つまり、ギリシア神話やローマ神話は、神々の歴史と祭祀の体系を語り継ぐものでした。


そして、祭祀の体系において出発点に位置するものが祖先崇拝(ancestor worship)です。


祖先崇拝とは、家族や親族の祖先や祖霊が代々に亘り子孫や一族の加護をもたらすものであり、部族集団の安定した結束によつて安定した秩序と平和を維持しようと祈る信仰形態です。


これは、日本のみならず、東アジア・アフリカ・古代ヨーロッパなど地球全域に存在した人類の始原的、根源的な営みです。始原的で根源的なものは普遍性があり、それは本能原理に基づくものなのです。


そして、祖先の霊は、代々の祖先を上(カミ)へと遡ることによつて集合的な一団の祖先霊となつて統める命(すめらみこと)に合一します。このカミ(上)への昇華が祖先崇拝から敬神崇祖(かみをうやまひおやをあがむ)といふ祭祀形態へと体系づけられることになります。


ちちははと とほつおやから すめみおや やほよろづへの くにからのみち   (自父母及先祖以至皇祖皇宗及八百萬之神而國體之道也)   (父母と遠つ祖先から皇御祖八百万神への國幹の道) 


まさに、これを感得できるのが祭祀の民なのです。


ところで、漢字語の「神」は、「示」と「申」で成り立つてゐます。「示」(?)は祖先神に生け贄を捧げる台の象形で、「申」はいなびかりの象形ですから、天神を意味する言葉でしたので、キリスト教の「God」に該当する言葉ではありません。


そのため、「God」の概念が入つてきたとき、これを「神」と誤訳したところに概念の混乱が生まれました。古代ギリシアでも、祭祀の国でしたから、古代ギリシア語には英語圏の「宗教」(religion)に該当する言葉はありませんでした。

生活に根付いた慣習や伝統としての「祭祀」は、便宜的にキリスト教といふ「宗教」に置き換へられて受容することになつたのです。


これは、いはば「托卵」によるものです。托卵とは、卵の世話を他の個体(仮親)に托して、孵化生長させる郭公などの動物の習性のことです。これは、卵の世話をする仮親の本能原理を利用したものです。


どうしてこのやうな托卵現象が起こるかと言へば、生活環境が大きく影響してゐるからです。

温暖で、海と陸地から豊富な食物が得られる地中海世界で、富裕な生活を続けることができたギリシア人やローマ人は、家族から離れても一人でも生活できる環境が生まれます。

そのために、ますます合理主義的な考へに支配され、個人主義を謳歌することになります。そして、祖先がこのやうな豊かな生活を築いて受け継いできたことの感謝と報恩の心が希薄となり、祖先から子孫へ伝へられる祭祀の序列を否定して、だれもがすべて水平的に平等であると考へるやうになります。

そして、祭祀の体系である神話を疎かにするやうになり、家族主義から個人主義へと意識を徐々に変化させて行つたところに、家族主義の信仰に基づく祭祀を捨てて、個人主義の信仰に基づく宗教(キリスト教)へと親和性を抱くことになつたのです。


神話と祖先崇拝とは不可分なもので、それが祭祀の心の源泉ですが、これが稀薄になつて行くのは、一人でも生きてゆける富裕社会のもたらした現象です。

ギリシアとローマは、地中海文化の中で、温暖な気候と食物に恵まれた生活の豊かさを謳歌して、娯楽を楽しむゆとりが生まれ、それが益々個人主義を助長し、祭祀を忘れさせる結果となつたのです。

我が国が敗戦後にGHQによる3S政策が徹底されたのは、祭祀の破壊といふ視点から再度見直す必要があります。


いづれにしても、リベラル・アーツの教育に大きな変化が生まれます。祭祀を重視したリベラル・アーツは、托卵によつて祭祀が宗教にすり替はつて継続したのです。つまり、宗教と合理主義がタッグを組むことにより、祭祀を破壊する教育として生まれ変はつたのです。


そして、宗教成立以前においては、人類はそれぞれの部族社会ごとに孤立して生活してゐたが、普遍性のある宗教が成立したことで、バラバラだった各共同体が一つのGodのもとにまとまつて共通の価値観ができあがり、宗教は世界の平和に貢献するものであつて、それが「文明」といふものであると、「大嘘」を教へます。


そもそも、祭祀の社会は、決して「孤立」してゐませんでした。そして、祭祀こそに普遍性がありました。

自分には親が居る。そして、親にもその親が居る。さうして、もつと遠くの無限の祖先が居ることを想起し、その総体が「カミ」として認識することになるのは否定できない事実です。これは、仮説でも特殊な思想でもありません。そのことが共通した祭祀の価値観であり、宗教が価値観として押しつけるものは、科学でも事実でもない単なる「思想」なのです。


神(God)が人間を造つたことも、一神教の「救済」も、仏教の「解脱」もすべて仮説です。検証できないものですから、肯定しても否定しても許されるのに、肯定しなければならないことを強制し、それを真実であると押しつけるのです。


それを押しつけることが正しいことであり共通の価値観になるのだと宗教的な合理主義者は言ふのです。ですから、宗教戦争は、世界の戦争の主流でしたし、平和といふのは、戦争による征服と殺戮の結果としての平和でしかなかつたのです。


そのことは、世俗化したキリスト教である共産主義を見れば一目瞭然です。

仮説に過ぎない思想を押しつけて、これに服しない者を力で征服し殺戮し、自己の思想世界を拡大してきたのは、まさに宗教そのものでした。


合理主義者は、宗教に基づいた文明(civilization)の方が祭祀に基づいた文化(culture)よりレベルが高いなどと平気で考へてゐます。これは、文化を否定して文明を行き渡らせることを「正義」(justice)とする信仰教義です。


大航海時代と呼ばれる大侵略時代では、スペインやイギリスなどによる宗教的信念に基づいての残虐行為によつて、世界中の先住民である祭祀の民は殺害され、あるいは奴隷となつて虐げられ、土地を略奪されて植民地の悲惨な生活を強いられました。


そして、北アメリカ大陸でも、合衆国やカナダの建国における西部開拓といふアメリカインデアンの殺戮とその祖先伝来の土地などの財産を略奪する行為は、この信仰教義であるマニフェスト・デスティニー(Manifest Destiny)として正当化されました。


西郷隆盛は、次のやうに、文明は野蛮であるといふことを語つてゐます(西郷南州遺訓)。


「一一 文明とは道の普く行はるゝを贊稱せる言にして、宮室の壯嚴、衣服の美麗、外觀の浮華を言ふには非ず。世人の唱ふる所、何が文明やら、何が野蠻やら些ちとも分らぬぞ。予嘗て或人と議論せしこと有り、西洋は野蠻ぢやと云ひしかば、否な文明ぞと爭ふ。否な野蠻ぢやと疊みかけしに、何とて夫れ程に申すにやと推せしゆゑ、實に文明ならば、未開の國に對しなば、慈愛を本とし、懇々説諭して開明に導く可きに、左は無くして未開矇昧の國に對する程むごく殘忍の事を致し己れを利するは野蠻ぢやと申せしかば、其人口を莟つぼめて言無かりきとて笑はれける。」と。


この西洋化、近代化といふのは合理主義の極地です。この無慈悲で残忍な行為を平気で行つてきた野蛮な文明の歴史は、祭祀を抹殺してきた歴史でもあります。


ですから、人類の歴史をこの視点で再検証することが必要となつてくるのです。

南出喜久治(平成31年2月15日記す)


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