自立再生政策提言

トップページ > 自立再生論02目次 > R01.06.01 第百二十四回 本能と理性 その十一

各種論文

前の論文へ | 目 次 | 次の論文へ

連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第百二十四回 本能と理性 その十一

あまつかみ くにつかみをぞ おこたらず いはひまつるは くにからのみち
(天津神国津神をぞ怠らず祭祀るは国幹の道)


日本書紀は、支那に我が国を理解させるために漢文で書かれ、我が国の歴史を説いて国家の矜持を示すための外交用文書でした。

魏志倭人伝、漢書、後漢書の存在を踏まへて編纂されたもので、これらとの違ひを意識して、我が国の独自性を強調したものです。ですから、これらと明らかに異なることや、あへて虚偽のことを記載してまで外交用の文書にすることは到底あり得ないことです。

それゆゑに、書かれてゐない部分はあつても内容虚偽のものと断定する現在の研究傾向には到底賛同できません。

といふよりも、祭祀の視点が完全に欠落した現在の研究といふのは、画竜点睛を欠くもので、歴史研究の名に値しないと思はれるのです。


これまで、魏志倭人伝を巡つて、様々な議論がなされてきました。卑弥呼の王宮のあつた場所が邪馬台国であり、この邪馬台国が倭国の連合国家の中心であつたといふことです。その所在地を巡つて、主に畿内説と九州説とが対立して、そのことばかりに関心が向けられるだけで、これら各地における祭祀の態様や変遷の視点からの考察は皆無でした。


この卑弥呼が記紀などによる我が国の歴史において、誰に同定され比定されるのかについては諸説あります。①神功皇后説(新井白石)、②熊襲女酋説(本居宣長)、③天照大神説(白鳥庫吉)、④倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)説などです。

このうち、②の本居宣長の熊襲女酋説といふのは、熊襲の女酋が神功皇后に成り済まして魏に使者を送つたいふもので、①の変形とも言へます。

しかし、どの説においても否定できないのは、卑弥呼(あるいは卑弥呼と名乗る者)が「鬼道」を行ふといふ魏志倭人伝の記述です。


鬼道といふのは、前に述べたとほり、うけひのことですので、これによつて倭国は統一され、決して武力統一されたのではないといふことなのです。


つまり、我が国は、「祭祀統一」された「しろしめす国家」であり、「うしはく」によつて「武力統一」された国家ではないことを魏志倭人伝は述べて居るのです。だからこそ「倭国」なのです。このことは、記紀の記述と完全に一致します。記紀にも、我が国が武力統一されたとする記述はありません。


つまり、我が国は、祭祀を統一することによつて政治統一を実現したのです。祭祀(まつりごと)と政治(まつりごと)との祭政一致です。このことは、「王覇の辨へ」(わうはのわきまへ)といふ皇室の伝統的な統治理念です。


この原型は、『古事記』、『日本書紀』にある寶鏡奉齋の御神勅に見られます。

天照大神の御霊代(みたましろ)、依代(よりしろ)である三種の神器の一つである「寶鏡」の「奉齋」と、これに基づく思金神(おもひかねのかみ)の「為政」、つまり、「齋」(王道)と「政」(覇道)との辨別です。つまり、天皇(総命、スメラミコト、オホキミ)の「王者」としての「権威」(大御稜威)に基づく「覇者」への委任により、覇者がその「権力」によつて統治する王覇辨立の原則なのです。


そのことが重要なのであつて、過度で些末な邪馬台国論争は、この視点が完全に欠落してゐる不毛の議論です。

つまり、邪馬台国が畿内(纏向遺跡)にあらうが、九州(吉野ヶ里遺跡)にあらうが、例外なく倭国内にあるすべての国家が祭祀統一されたのであり、どの説に立たうと、全国各地に祭祀統一を示す史跡が多くあることに注目すべきなのです。


我が国は、石器時代から青銅器時代を経ずにいきなり鉄器時代に進みました。弥生時代の青銅器の銅鐸は、祭祀の中心となる祭器として用ゐられ、様々な形状や大きさのものがありました。そして、青銅は銅鐸、鏡などの聖なる道具に用ゐられ、鉄は武器、武具、農具などの俗なる道具に使はれるといふ棲み分けされてきたのが我が国の国柄なのです。


そして、この銅鐸は、各地方で様々な形状と大きさに分かれてゐましたが、最終的には、近畿地方と東海地方との二大潮流に集約された後に、大岩山遺跡(滋賀県野洲)の巨大銅鐸として統一されました。そして、これは、祭祀儀礼の統一でもあり、祭祀の統一でもあります。


その祭祀統一の遺跡が、伊勢遺跡(滋賀県守山)の巨大な祭祀施設跡です。そしてその後は銅鐸は忽然と我が国から消えました。そして、これに代はる祭祀の中心が鏡となりました。祭祀の祭具の中心が、銅鐸から鏡へと劇的に変遷したのです。


また、後漢書には「桓霊間倭国大乱」とあり、桓帝(在位は西暦147年から167年)と霊帝(在位は西暦167年から184年)の間に倭国に大乱があつたことになり、魏志倭人伝には、それを鎮めるために倭国では卑弥呼を「共立」して統一したとあります。これは先ほど述べたとほり、祭祀による統一なのです。


そして、正始8年(西暦247年)に卑弥呼は亡くなります。卑弥呼を埋葬したのが、箸墓古墳(奈良県桜井市)か、祇園山古墳(福岡県久留米市)か、はたまた平原(ひらばる)遺跡一号墓(福岡県糸島市)なのかは解りませんが、祭祀統一の視点からは、倭(大和)国の中心である邪馬台国は、統合されて行つた祭祀の系譜からして、大和朝廷のことであり、畿内にあつたことが解ります。


前に述べましたが、支那において、匈奴の侵入などの対外的危機が迫ると自衛のために家族制が鞏固となるのは、世界的に共通した現象です。

ですから、我が国においても、対外的危機が訪れた卑弥呼の時代(西暦3世紀中期)、そして、「宋書」などに登場する「倭の五王」の時代(西暦5世紀)、白村江の戦ひに敗戦した後の時代(西暦7世紀)と、立て続けに襲つたきた対外的脅威は、我が国にも、鞏固な家族制を基盤とした臨戦態勢とともに、武力による国内統一を極力避けて統一するための祭祀統一の道を歩んできた希有な歴史を再確認する必要があります。


特に、地震、津波、火山噴火、火災、洪水、台風などの自然災害が繰り返し襲つてくる我が国では、生活防衛の基本となる家族の絆は欠かせません。

平成の時代は、我が国を巻き込む戦争こそありませんでしたが、その脅威に常に晒されてきたとともに、災害が多発した時代でしたし、令和の時代もこれを繰り返すことになります。


対外戦争の脅威と自然災害の脅威は、家族の絆を鞏固にし続けることを常に忘れてはならないといふ啓示なのです。我が国は、歴史的にも地政学的にも、支那と韓半島に海峡を挟んで存在することによる対外的脅威があるために、さらに家族の絆を鞏固にした社会構造の構築が必要になつてゐるのです。


ところで、古代において、鉄資源がないとされてきた我が国では、朝鮮半島南部の弁辰からの鉄に依存して鉄器と鉄製武具などで武装し、危機に備へなければなりませんでした。

しかし、後になつて、たたら製法で砂鉄を使つて国産化することができることとなつたために、各地で鉄製武具によつて各地で強大な武装をすることになつたことからすると、神武肇国の時代から時代が下がれば下がるほど、武力による統一は著しく困難になつてゐたのです。

ですから、その後の我が国内での大規模な武力統一は、源平時代、鎌倉時代末期、戦国時代など、外からの脅威がない状況でも存在し、全国的に大きな災厄をもたらしましたが、その場合でも常にその統治原理としての王覇の辨へは維持されてきました。


白村江の戦ひで敗れた後の我が国は、その後、唐と新羅の連合国から攻めてこられるとの現実の脅威が高まり、天智天皇の時代には、瀬戸内から九州までに多くの山城などを築いて防禦したものの、唐と新羅との対立によつてその危機が回避されたことから、その後に起こつた壬申の乱については謎が多いのですが、大海人皇子(天武天皇)の進軍の軌跡は、どうも銅鐸の統一の経緯と重なるものがあります。壬申の乱は地方豪族を従へた祭祀統一の再現のやうでありました。


そして、天武天皇が編纂を命じた記紀は、単なる歴史書の編纂といふのではなく、長い長い時間をかけて、全国各地に担当者を派遣し、諸部族の祖先の系統とスメラミコトとのゆかりを再確認して、各地の伝承をも取り入れて、諸部族の納得を得て祭祀の統合による「しろしめす」治世を実現することに主眼が置かれました。歴史書編纂の協力を求める形で、諸部族の祖先の系譜を皇統に組み入れることにより統一を行つたのです。

これは武力統一ではない祭祀統一の姿なのです。「しろしめす」の意味は、皇統と諸部族の祖先の系譜との関係をしらしめし、祭祀を統一することなのです。


ちちははと とほつおやから すめみおや やほよろづへの くにからのみち


かくして、祭祀の国は、これまで間断なく受け継がれてきたのです。そして、このことは、これからの世界における祭祀統一による大偉業と絶対平和実現の道標として、令和の時代を迎へることになつたといふことです。

南出喜久治(令和元年6月1日記す)


前の論文へ | 目 次 | 次の論文へ