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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第百三十八回 依代と象徴 その一

ふさがれし うみくがのりを はなつちは たみのいさみと こころのおきて
(塞がれし(占領されし)海陸(皇土)法(法体系)を放つ(解放する)道は民(臣民)の勇み(勇気)と心の掟(心構へ))


平成2年11月12日の即位礼正殿の儀の天皇の宣明には、「日本国憲法を遵守し、日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たす」とありました。


そして、令和元年の天皇の宣明の中にも、「憲法にのっとり、日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たす」とありました。


いづれも、それを「誓ふ」とあり、これが二代続いたのです。


占領憲法下では、天皇は、「象徴」であることに甘んじ、それを主権者である国民に「誓ふ」。これは、公務員の宣誓と全く同じです。


職員の服務の宣誓に関する政令(昭和41年2月10日政令第14号)によつて定められた国家公務員の服務の宣誓は、「私は、国民全体の奉仕者として公共の利益のために勤務すべき責務を深く自覚し、日本国憲法を遵守し、並びに法令及び上司の職務上の命令に従い、不偏不党かつ公正に職務の遂行に当たることをかたく誓います。」とあります。


これと、「世襲公務員」の「天皇」の宣誓とは、占領憲法上は全く同じなのです。


占領憲法第99条には、「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」とありますから、天皇は世襲公務員なのです。


昔、天皇機関説に対する批判として、天皇を公務員とする考へなのでケシカランといふものがありましたが、帝国憲法上の天皇は、公務員ではありませんので、この批判は当たりません。天皇は統治者であつて、統治者の下で仕へる公務員ではないからです。


しかし、占領憲法下であれば、天皇は、主権者(統治権者)に仕へる「世襲公務員」の地位ですから、主権者に対する「服務宣誓」をすることは当然といふことになります。


「臣民」(皇民)の自覚のない我が国の多くの「国民」は、占領憲法第1条を象徴天皇の条項だと言つて有り難がりますが、これほどまで愚かな認識が浸透してゐることは亡国の予兆と言へます。


ここには、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」とあります。


天皇の地位は、主権者(ご主人様)である国民の総意に基づくもので、天皇はご主人様に仕へる家来であり僕であるとの意味です。これは天皇条項ではなく、国民主権条項なのです。


また、ここには、「総意」とありますが、占領憲法の正式文書が英文(THE CONSTITUTION OF JAPAN)であり、「日本国憲法」なるものは、その不正確な訳文に過ぎないのです。


GHQの占領政策における指令において、占領期間における公用語は英語(米語)になつてゐました。

そのため、占領期間中に発行されてゐた英文官報に掲載されたものだけが公式なものであり、「THE CONSTITUTION OF JAPAN」のみが正式な「日本国憲法」なのです。同時に掲載された邦文官報の「日本国憲法」は、その日本側の主張する翻訳文に過ぎないのですから、そのことをご存知の人は、「the will of the people」、つまり、「人民の意志」であることを理解してゐますので、「総意」といふのは誤訳だと知つてゐるのです。


「人民」といふのは、「日本国民」に限りません。在日外国人を含みます。また、「意志」とは「総意」とは違ひます。多数決で「意志」は決定します。


一生懸命に象徴としての務め果たさないと、ご主人様の多数決で「NO」と言はれて天皇の地位から引きずり下ろされて強制退位されられるのです。今回の強制退位は、そのことが実現したのです。


そもそも、「象徴」といふ奇妙な言葉を有り難がる人の気が知れません。恐らく似非日本人(非臣民)なのでせう。


天皇は、神話が煙る時代から、「象徴」といふ軽薄な存在ではありませんでした。


象徴といふのは、フランス語のsymboleといふ言葉を中江兆民がこれを象徴と訳したことから始まります。シンボル(象徴)といふのは、本来の実態や実像とは全く異なる別のものをこれに置き換へることを意味するのです。


天皇が、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴といふことは、天皇は、日本国とは異質の、そして、日本国民統合の実態とは異質の存在であるといふことです。


象徴するものと象徴されるものとの間には、初めは全く関係性がないのです。象徴になることによつて結果的に関係性が生まれるだけです。


鳩といふ、極めて貪欲で排他的な鳥が平和といふ異質で真逆なものの象徴であるとされるやうに、天皇は、日本国でも日本国民の全体集合とは無縁の異物であるとするのが占領憲法なのです。


それを踏まへて、「象徴」と「誓ふ」言葉を使つて、二代続けて宣明された。二代続けられたことの意味は重大です。これが皇統護持の危機でなくて何でありませう。


天皇は象徴などではない、と明確に主張する者が多く出てこないことも我が国の危機の一つと言へます。


天皇は、昔から象徴だつたとか、記紀編纂以後に象徴となつたとか、様々な奇論を叫ぶバカ者どもが多く居ます。だから皇統護持の危機なのです。


そもそも、天皇といふ呼称は、記紀では神武天皇とされますが、実際は、天智天皇時代であるとか、天武・持統天皇時代であるとするとかの見解などあつて、概ね3つほどの説に分かれてゐます。


しかし、天皇(てんわう)といふ漢字語音を大和言葉の「おほきみ」の代用とした記紀編纂の時期から、祭祀における「おほきみ」の存在意義が怪しいものになつてきたのです。


ましてや、象徴なる言葉は、娼婦に生ませた5人の子どもを孤児院に全て遺棄することに何らの後ろめたさを感じることなく、「親はなくても子は育つ」といふ悍ましい教育理論をぶち上げた、ルソーといふパラノイア症状の人間が書いた「民約論」を翻訳した中江兆民の造語ですから、さらに怪しくて悍ましい雰囲気を持つた言葉なのです。


我が国には、古来から象徴といふ言葉に対応する大和言葉はありません。

漢字語音で天皇(てんわう)とか象徴(しょうちょう)と言つても、言霊の響きは弱いのです。


「おほきみ」(天皇)と「おほみたから」(臣民又は皇民)との関係は、古来から、「雛形」(ひながた)と呼ばれてきました。

「ひながた」とは、まさに大和言葉です。


極大事象である宇宙構造まで、自然界に存在するあらゆる事象には自己相似関係を持つてゐるといふのが、雛形構造といふもので、これは、現代において、唱へられたフラクタル構造理論と同じものです。フラクタルとは、フランスの数学者ブノワ・マンデルブロが導入した幾何学の概念で、いまやコンピュータ・グラフィックスの分野でも応用されてゐる理論でもありますが、これは、まさに、我が国古来の雛形構造の理論を世界的に認知したものに他なりません。


この雛形理論(フラクタル構造理論)とは、全体の構造がそれと相似した小さな構造の繰り返しでできてゐる自己相似構造であること、たとへば、海岸線や天空の雲、樹木、生體など自然界に存在する一見不規則で複雑な構造は、どんなに微少な部分であつても全体に相似するとするものです。


そして、マクロ的な宇宙構造についても、いまや雛形構造(フラクタル構造)であることが観察されてをり、また、恒星である太陽を中心に地球などの惑星が公転し、その惑星の周囲を月などの衛星が回転する構造と、原子核の周囲を電子が回転するミクロ的な原子構造モデルとは、極大から極小に至る宇宙組成物質全体が自己相似することが解つてきてゐます。


さらには、海岸や雲の微小部分における輪郭線が全体部分の輪郭線に相似し、樹木でも、放射状構造の葉脈や根毛の微小部分が葉、枝振り、根、樹木全体の放射状構造と段階的に相似してゐますし、生物一般についても、個々の細胞とその集合体である細胞組織や臓器とが、さらに、臓器と個体とがそれぞれ相似してゐるといふことなのです。それは、生体が単細胞動物を原型として、多細胞生物が存在し、体細胞分裂によつて個体の統一性が維持されてゐるといふ雛形構造(フラクタル構造)にあるといふことです。


ですから、「ひな」は、「おや」とは同質であり、象徴のやうな異質のものではありません。平和の象徴が鳩だといふ人が居るとしても、誰も平和の雛形が鳩だと言ふ人は居ない筈です。


天皇(おや)と皇民(ひな)とは、同質であり、「ひな」は、育つて年を重ねても、「おや」の年を抜くことはできません。

「おや」と「ひな」とは、同質であつても、時間軸における序列の上下は絶対なのです。それゆゑに、皇祖皇宗に肇まる男系男子の皇統による天皇宗家は、臣民とは隔絶した絶対的な存在なのです。


そして、天皇が神裔であれば、臣民(皇民)も神の子です。赤子(せきし)なのです。


「おほきみ」(天皇)と「おほみたから」(臣民、皇民)とが「雛形」(ひながた)の関係であるために、天皇の祭祀(宮中祭祀と神宮祭祀)と臣民(皇民)の祭祀(祖先祭祀、英霊祭祀、自然祭祀)が「ひながた」の関係になつてゐるのです。


天皇が誓ふ先は、皇祖皇宗なのであり、国民ではありません。

そのことが理解されず、天皇が国民に対し世襲公務員として誓ひをさせ、種々の形骸化した儀式を連ねることは、皇祖皇宗への冒涜に他なりません。


即位礼正殿の儀は、令和元年10月22日になされました。京都では毎年この日は時代祭の日でしたが、即位礼正殿の儀と重なるため、令和元年の時代祭だけは同月26日になりました。

観光客や一般大衆からすれば、即位礼正殿の儀も時代祭も、豪華絢爛な衣装を纏つた、滅多に見られない大イベントと受け止め、写真とビデオなどを撮つて記録するだけのものです。時代祭は毎年ありますが、即位礼正殿の儀は稀にしか見られない高い希少価値があるとする程度の違ひです。時代祭の仮装行列と本質的な違ひを感じてゐないのです。


真実を語る者は常に少数です。


その昔、支那の戦国時代に、楚の屈原が、秦の奸計に嵌まつてはならないと懐王に諫言しても受け入れられず、懐王が騙し討ちされた後に即位した頃襄王にも疎まれて左遷され、江南の地の長江の畔で、祖国の衰退と自己の境涯を悲しんで、湖南の汨羅江に、再び浮上しない覚悟で懐に石を抱へて身を投じました。


このままであれば、皇統の正気を感じない抜け殻のやうな儀式に、臣民は、砂を噛む思ひと憂国の至情とが心の中で鬩ぎ合つたまま朽ち果てることになります。屈原の心中に思ひを馳せるのは、私だけなのでせうか。


忠は不忠、賢は不賢なり。

衆人皆酔ひて吾独り醒む

南出喜久治(令和2年元旦記す)


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