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連載:千座の置き戸(ちくらのおきど)【続・祭祀の道】編

第九十六回 法的安定性

まなびやで うそでかためし ことわりを をしへつづける はぢをこそしれ
(学舎で嘘で固めし理屈を教へ続ける恥をこそ知れ)

昨年(平成29年)4月17日に亡くなつた渡部昇一氏は、『渡部昇一「日本の歴史」第7巻 戦後編「戦後」混迷の時代から』(ワック 平成27年7月27日発行)の中で、
「では、護憲学者が主張する日本国憲法の正統性についてはどう考えればよいか。憲法学者のなかでおそらく唯一、大学を出ていない南出喜久治弁護士の意見が一番、筋が通っていると思う。」(p131)
と述べられた。


私は、渡部昇一氏との対談共著『日本国憲法無効宣言』(ビジネス社 平成19年4月19日発行)の企画のために、ある日、東京のホテルで朝から夕方まで昼食を挟んで、時が経つのを忘れて約8時間、憲法だけでなく、典範、そして政治や経済のことにまでに脱線して多くのことを渡部氏と語り合つた。編集の都合で多くの事柄が省略されたものの、そのときに語り合つた憲法学の体系的な理解を深められたことから、私の意見が「一番、筋が通っている」と率直に述べられたのだと思ふ。


典範のことは、この『日本国憲法無効宣言』のテーマではなかつたが、私は、廃刊になつた「月曜評論」に、平成16年6月21日付けて作成した『現行「皇室典範」無効宣言』を発表してゐたので、このことについても憲法論とは別枠で渡部氏と話をしてゐた。


私の見解は、占領憲法は憲法としては無効であるが、帝国憲法第76条第1項により、講和条約の限度で有効とする「相対的無効論」であるのに対し、占領典範は、典範として無効であり、如何なる規範としても有効であるとは認められないとする「絶対的無効論」がある。


この違ひは、一言で言へば、法的安定性とその法的整合性と法的論理性を維持するといふ一貫した考へから帰結されるものである。占領典範を無効としても、明治典範を含む宮務法体系の法的安定性を害することはないが、占領憲法を絶対無効だとすると法的安定性を著しく害することになるからである。


この点も渡部氏はよく理解されてゐたが、残念なことに、このことを以後の言論活動で反映されることはなかつた。しかし、今上陛下の譲位が議論された際に、渡部氏が譲位ではなく摂政に拘はられたのは、明治典範に拘られたためでもある。


このやうに、占領典範が絶対無効であるとする私の見解は、当初は私一人であつたが、小山常実氏も、これに追随して賛同してくれた。

小山氏は、昨年暮れに、杉原誠四郎との共著で『憲法及び皇室典範論』(自由社 平成29年12月23日発行)を上梓したが、この中でも、
「少なくとも、私以外に、南出喜久治氏も「新皇室典範」無効論を唱えています(『占領憲法の正体』国書刊行会2009年)。と言っても、二人だけですが。」(p263)
と述べてゐる。


しかし、先ほどの法的安定性とその法的整合性及び法的論理性の維持といふことでは、小山氏と私とは大きな開きがある。

そもそも、渡部氏が「憲法学者のなかでおそらく唯一、大学を出ていない」とする私が唱へる真正護憲論(講和条約説)に賛同してくれる人は少なからず存在する。


中でも、矢作直樹氏は、『天皇』(扶桑社 平成25年9月13日発行)の中で、
「南出喜久治『占領憲法の正體』によれば、大日本帝国憲法第75条は「憲法及典範ハ摂政ヲ置クノ間之ヲ変更スルコトヲ得ス」、すなわち天皇陛下自らが天皇大権を行使できない状況においては憲法改正ができない、謳っています。したがって天皇大権それ自体が否定され、独立を奪われた軍事占領下においてはなおのこと憲法改正はできないことになり、この75条にも違反しています。つまり占領憲法は、国内系の正統憲法としては認められないが、76条1項により、国際法系の講和条約の限度で認められると考えられます。」(p106)
と述べ、さらに、近著である『天皇の祈りが世界を動かす~「平成玉音放送」の真実~』(扶桑社新書、平成30年1月1日発行)でも同じことを繰り返し述べてゐるのである。

矢作氏も、私の法的安定性とその法的整合性及び法的論理性を当然に理解されてゐるのである。


しかし、旧無効論(絶対的無効論)に属する小山氏が、法的安定性を意識しつつも、そのために必要な法的整合性と法的論理性が破綻してゐることに気付いてゐないことが残念に思ふ。


小山は、前掲の著書でかう言ふ。
「無効であること、無効であり続けたことを確認するわけです。だけれども、その無効の確認の効力を遡らせるかどうか、それは別なんです。現時点からずっと無効を遡らせるとは、私は主張していないわけですよ。この点は、体系的に無効論を展開している研究者はすべて同じなのですよ。要するに、私を含めて無効論者は、今までの行為をすべて無に帰するつもりはなくて、これ以降、憲法として無効なものであったものとして処理していくと。それが法理論的に成り立たないというのであるとすれば、単純に無効であったことを確認する時に、無効ということを過去には遡らせないことを国会で決議すればいいわけですね。そういう確認をしておけばいいということなんです。」(p27、p28)
 これは一見して論理が矛盾し破綻してゐることが解るはずである。


無効といふのは、もとより無効なので、遡るも遡らないもない。法は峻別の法理で概念を定義する。有効と無効とは厳格に峻別される。その中間の状態はない。有効とされた行為がその瑕疵によつてその後の意思表示によつて無効となるといふ「取消」といふ概念も、確定的に有効とする「追認」の概念も、あるいは無効なものを事後の意思表示により有効にするといふ「無効行為の追認」の概念も、この峻別の法理によつて編み出された応用概念である。そして、公序良俗に違反する占領憲法の制定行為は、確定的に無効であつて、いつまで経つても無効であり、追認により有効となることはない。公序良俗違反の行為を事後に追認できるとすれば、公序良俗違反を無効とした制度を根底から覆すことになるからである。確定的に無効なものを無効であると確認すれば、そのときから過去に遡つて無効になるのではなく、その確認をする前から無効であることが確認されるだけである。


死亡診断書を作成したときに死亡するのではなく、過去に死亡したことを確認するだけのことである。死亡診断書(無効確認宣言)を書いたときに、そのときから死んだことにして、それまでは生きてゐたとすることはあり得ないことである。


「無効であり続けたことを確認する」としてゐるのに、「単純に無効であったことを確認する時に、無効ということを過去には遡らせないことを国会で決議すればいいわけですね」といふことは明らかに矛盾する。そもそも、無効の占領憲法で組織された国会には、無効となつた時期を変更する権限があるはずがないのである。

小山氏が自らも認めるやうに、「法理論的に成り立たない」のである。

つまり、「無効であり続けたことを確認する」はずなのに、「無効ということを過去には遡らせないことを国会で決議すればいいわけですね。そういう確認をしておけばいいということなんです。」とすると、占領憲法で作られた国会にそんな権限がないことをさておくとしても、「無効ということを過去には遡らせない」といふことは、「無効であり続けた」はずの過去の行為に遡つて「有効であると確認すること」ないしは「有効であると追認すること」になつてしまふ。無効確認と言ひながら、逆に有効確認をしてしまふといふ明らかな矛盾である。


私の真正護憲論は、占領憲法が憲法としては無効であるとすることは小山氏らの唱へる旧無効論と同じであるが、講和条約の限度で有効であるとする点において、占領憲法有効論なのである。講和条約であるから、将来に向けて破棄(無効化)できるのである。


また、小山氏は、
「現時点からずっと無効を遡らせるとは、私は主張していないわけですよ。この点は、体系的に無効論を展開している研究者はすべて同じなのですよ。要するに、私を含めて無効論者は、今までの行為をすべて無に帰するつもりはなくて、これ以降、憲法として無効なものであったものとして処理していくと。」
 この部分は、明らかに私を排除し、無視するための悪意に満ちたものである。そもそもこの記述は、無効の意味が全く解つてゐないし、無効の定義を破壊するものである。「無効を遡らせる」といふ言葉は、無効の定義からしてあり得ない。このやうなことは、取消の概念であつて無効の概念ではないのである。取消であれば、取り消すまでは暫定的に有効であることになる。この点も、旧無効論の矛盾である。


しかも、「現時点からずっと無効を遡らせるとは、私は主張していないわけですよ。」と言ひながら、その前の所では、「無効ということを過去には遡らせないことを国会で決議すればいいわけですね。そういう確認をしておけばいいということなんです。」としてゐるので、全く矛盾してゐるのである。


以前に私と小山氏との間でなされた論争は、小山氏の著作において、将来に向かつて無効とするといふ「将来効」を私も主張してゐると、明らかに虚偽の記述がなされたことから始まつたことなのであつて、小山氏は、このことを未だに理解してゐない。

小山氏としては、無効であれば過去の法律、処分、判決等の一切が覆滅して法的安定性を害する革命思想であるとの批判を受けないために、法的安定性に配慮して論理を組み立てようとしたのであらうが、その姿勢は評価できるとしても、無効の概念を恣意的に破壊して、その意味を歪めて無理矢理に将来無効に限定してまで法的安定性を守らうとしたために、それが却つて法的整合性と法的論理性の破綻を生んでしまつたのである。

しかし、真正護憲論であれば、そのやうな矛盾は一切生じないのである。


自説に固執して、法的安定性のために無効の意味をねじ曲げて説明し、やつと法的安定性を侵害するとの批判を免れたとしても、その法的整合性と法的論理性を破壊することになつては法の科学としては何の意味もないのである。

繰り返し述べるが、私は、占領憲法については相対的無効論(講和条約説)であり、占領典範については絶対的無効論なのである。

小山氏のやうな、一元的な絶対的無効論(ただし、占領憲法については無効の将来効といふ主張をする変則的なもの)ではないのである。


親しかつた西部邁氏は今年1月21日に自裁死したが、西部邁氏は占領憲法のことを「米定憲法」と揶揄してゐたし、また、承詔必謹論により占領憲法は憲法として有効だと強弁し、これを無効であるとする私を批判してきた加瀬英明氏も、最近では占領憲法を「不平等条約」だと主張し出した。そして、ジェイソン・モーガンの『日本国憲法は日本人の恥である』(悟空出版 平成30年1月25日発行)といふ書籍の第一章にも、「日本国憲法はメイド・イン・USAの不平等条約だ」といふ表現が登場してきた。


これらの主張には、論理的な説明が全く伴つてゐないが、占領憲法は憲法ではなく、憲法としては無効であるが、それでも「何か得体の知れない別もの」として有効なものと認識できるのではないのか、といふ多くの人の感性が蘇つてきた現象と捉へることができる。

それは、法的安定性を維持し、しかも、別の何かであることについての法的整合性と法的論理性が満たされることを求めてゐる兆候であると受け止めることができるのである。

南出喜久治(平成30年4月1日記す)


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